2018年12月9日日曜日

問い掛け-10

<気絶>


 入学式の朝。グレーのブレザーと半ズボン、ハイソックスを聞き、白いハンカチをポケッ トにそっと仕舞って緊張した。どれもが新品でナフタリンの香りが嬉しくて堪らない。

 小学校の校門には、両脇に大きな桜の木がまるで祝うかのように待っていた。

 和服姿の養母と一緒に、校庭でクラス別の写真に収まった特別な日。担任の先生が女先生だったこと、そして自分の席を覚えるのが精一杯の私は慌ただしく入学式を終えて帰宅した。

 その日の午後、まさか、気絶する程の大怪我に遇うとは誰が予測しただろうか。

 普段着に着替えて外に飛び出した私は一目散に駆け出し、同級生のR君と一つ年下のM君を呼び出して遊んでいた。すると、隣り区の子供が二人。M君に詰め寄って文句を言い出すので、彼を庇うつもりで私は反論した。その二人は小学三年と五年生の兄弟と後で判った。

まさか、この二人が暴力に出るだろうとの予測もなく、私は、兄を相手に口をとがらし拙ない言葉で口論を続けていた。すると突然、誰かに背後から頭を押され、私はつんのめるよう にして倒れ込み、条件反射の如く、両手を前に出した。しかし、その両手は、雑草に隠れた側溝の溝へと吸い込まれ、顔面に側溝の白いコンクリート片が迫ってくる・・・・。




 気が付いたとき、私は布団の上に寝ていた。鼻がズキンと疼いて痛い。 どうして、ここに今、寝ているのか状況が掴めず「カアちゃん。」と養母を呼んだら、 隣りの部屋から「今起きたかね。」と言って襖を開けて養母が、事の成り行きを話して呉れた。

 昨日の午後、M君が泣きながら駆け込んで来ると、「佐伯君が鼻から血を流して倒れちゃったよぉ。」との報らせを聞き、直ぐ現場に掛けつけた養母は、気絶した私の顔を見て、鼻梁の真ん中がバックリと切れていたので愕いたという。

 その事故のとき、R君は恐くなって家に帰ってしまい, 加害者の兄弟は走って逃げたため、M君だけが泣きながら伝へに来たという内容だった。 血を流していたが、医者に行く程の怪我ではないと判断したのか、既に夕方で病院が閉まっていたので締めたのか、家庭治療で済ませた 結果、私の鼻は長い間、曲がったまま、傷痕もハッキリ残ってしまった。 驚いたのは養父だった。

「もし眼じゃったら、失明しちょるぞ、本当に。」と言って激昂した。


 数日後、養父と私は、その兄弟の家へ赴き、彼らと父親を前にして怪我の経緯と謝罪の言葉を求めた。


 兄弟は泣きながら謝り父親も息子たちを横目で叱っていた。それでも養父は、

「もし女の子だったら、どう責任をとるのかね。」

と言って、続けざまに痰火を切る。犯人が弟の方だと判った。子供のケンカとは申せ、私の真後ろから不意に暴力に出たこと、そして逃げ去った行為が養父には気に食わないらしい。  子供のケンカに大人が介入するのは可笑しいのだが、怪我とその内容が悪すぎた。

 目の前の二人を見て、私は何故か兄弟を恨む気になれなかった。二人が、父親に叱られながら、 正座して両拳を強く握りしめ泣いている姿を前にするから同情しているのとは少し違う。

 多分それは、初めて気絶したショックと、ケンカとも呼べないアクシデントで大怪我を被り、加えて、入学式の、それも当日の出来事であり、これから夢を抱き、希望一杯に登校すべく小学校の先輩の二人から受けた暴力に大きな失望を感じていたからだ。これも或る、人間不信のひとつとなって心に刻み込まれたのではなかろうか。

 帰り際、養父は、「もうあの子たちとは、遊んだらつまらんぞ。」と言って、私を睨んだ。 やはり、無性に悲しくて堪らない。以前のような、渇愛の悲しみとは少し違う痛みが胸を突く。 子供の自分には、上手く説明が出来ないだけに、ただ、ただ、幸いなァーと思う寂塞感が募るばかりだった。




 近所の友達もそうだが、あの兄弟も同じように、そして養父とも、心がちっとも繋がらない。不満も、ケンカもない、静かで楽しい一日を生きて行ければ一番良いのになアー。 皆んなが皆んなどこか違うなァー。いつも余所を向いてるなァ。どうにかならないのかなァー。と、小さな頭で思い悩み、そして切なくなった。

常識からして、ナイフを持ち出して復讐する養父の考えは常軌を逸した行為だ。狂気の沙汰としか思えない。

 養父は、その過ちを、未だに気付していない。しかし当時の養父は、余所者だからといって。 他人に責められる必要はない。意地を見せろ、態度で示せ、と私に教えたつもりだったのだ。さも勲章を見せびらかすかのように ・・・・。でも私は、その歪んだ養父の心性と劣等感からくる可笑しな価値観が透けて見えたように思う・・・・ 。

 少なくとも本能的に「父ちゃんは、怒ると何をするか分らない。 気狂いになる。そんな人なのだ。」 と、脳裏に深く刻み込まれてしまった。




 隣りに坐っていた養母は呆れ顔で、

「もう、ええじゃない。あの子供たちも一明に謝ったんじゃから一明も、もう、あっちの方へ遊びに行くことはないんじゃから・・・・ 」

と、書父に宥めるように優しくいって収めた。

 確か、 この頃でした。養父から韓番で直接手や背中に焼処 (ヤイト)を据えられたのは・・・・。その時の印象は今も鮮烈に残っている。しかも、笑いながら火のついた線香を 私の肌に当てるのだ・・・・。そして間違いなく涎を垂らしていた。(今振り返えってみても、一体、何が嬉しいのか。何故その時だけ養父はニヤニヤするのか、よく判からない。)  勿論、私の悪魔やロ答えを治すための折艦もあったと思う 義母は私に、

「早く謝りなさい。」

とせかした。 しかし、私は頑として聞かない。なぜなら、私の言い分を訊いて呉れないからだ。養父は、思い込みが強く、烈火の如く怒り出し、拳骨が先に飛んできた。

 感情のまま慣る姿と、虐待に近い暴力と脅し文句に反揆したかった。養父の、

「よし、分かった 父ちゃんにも考えがあるからのぉ。 みちょれよ。」

と、子供相手に威嚇し睨み付ける情けない姿にも・・・・。

 この過った性癖と態度に対し、ときどき養母は愚痴をこぼした。

 その文句を聴き逃さない私は、家(うち)は、他の家庭とは違うな、と徐々に気付き始めたのも、この頃だった。




 言う迄もなく、家の中は以前より暗くなり、養母と私は、まるで小動物のように身体を強張らせ、養父の顔色を窺いながら一挙手一投足にビクビク脅えながら暮らす毎日が始まった。




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続く。

問い掛け-9

<空海とロ寄せ>


 「死」を意識し出した私は、シロやタマたちは、いつ死ぬのだろうかと、養母に問い詰めたら、人より短命だと教えられ、彼らに対する接し方が一変。というより、二匹の行動を注意深く、そして気遣うようになったと思う。

 当時、テレビ番組の「ウルトラQ」を観てから、未知への恐怖心に一層拍車がかかり、 ときどき、養母と、魂について話していた。 でも本当のところはよく分からなかった。

あまりにも観念的で難し過ぎた。

 或る日養母から、何処其処にも必ず色々な神様が居るもんじゃぞ、と教えられ、氏神様や 道祖神のこと、そして、般若経について少し、何かを聞かされた。それでも、私には難しくてよく分からず殆んど忘れてしまった。その話の中で、佐伯の姓とは、実は、弘法大師・空海様の姓(本名)と同じやから、偉い苗字なのだと教えられ、四国生まれの空海は、 佐旧真魚という姓名で、生まれたとき、その産声がお軽に聴こえると言って、或る坊主 (高僧)が手を合わせたとのこと。多分、高野山の真言宗や四国のお運端さん、そして空海の偉業についても語っていたと思う。しかし、私はすっかり忘れており、また、その佐伯姓を 意識することもなく、当時は、平仮名を覚えること、自分で名前を書く練習に夢中だった。

 しかし、その後、引っ越しを重ねるなか、空海が建てたという寺の隣りに移り住んだ折、奇妙な繋がりと心境の変化を来すものがあり、空海を意識したことがある。


 日曜の或る朝、義父母たけで、どこかに出掛けるからと言われ、一人で留守番をし、夕方、帰宅した義父母は、何かヒソヒソと話し出し、すると突然、まるで喧嘩のような大声

を出して、「なら、引っ越しするしかないじゃろがア」

「毎晩、こうやって、首を締められるんじゃからのう。なぜ、とうちゃんだけなのかよう分からんのお。」

「この家は、昔、首を吊って死んだ男が居たんじゃ。その男の霊じゃから。」

「別に、あたいの所為じゃないけんねえ、もう、知らんよ。」

と、養父母は、引っ越しするかどうすべきかについて話していたのだ。

  幼い頭で、二人の話の辻褄を合わせて整理すると斯うだった。

 養父が毎夜、男の霊に首を締められるので取り憑かれたのではないかと養母に相識した結果、丹沢の麓に在る口寄せを訪ね、相談したところ、地縛霊だから、引っ越す方が良いと告げられ帰宅し、いまどうすべきかと二人が揉めていたのだ。

 その後、養父は別の口寄せに生き、そこの住職から、

「あなたには、或る地蔵様が付いていますから、その○○地蔵を祀りなさい。」 と、告げられ、養父は、俄然元気を取り戻し、別のお経も唱えるようになり、一時、その霊の話しは止んだ。

 何故、養父にだけ霊が義き、養母や私には憑かず、まして何も見えないのか、それが不思議だった。否、もしかすると養母は既に見ていた。敢えて無視し、もしくは、養母だけの結界を張っていたのかも知れない。

 なぜなら、過去、多くの神秘体験を重ねていた不思議な過去を持つ養母だから・・・・。


<近所の噂>


 養父母の性格、趣味、嗜好がどんなものなのか、そして、二人の歳の差を意識するようになったのは学校へ上がる前だと記憶している。

 周りの家庭と比較しだしたのもこの頃であり、異和感を覚え、戸惑ったこともある。

 養父が文盲ゆえ、読み書きの全ては養母に任されていたこと、そして何事であれ、養母に意見を求めるやりとりは、「なら、これで、ええんじゃのお、よし、判った。そうするからのお。」 と言って判断を仰ぎ、養母の知識や経験に頼っていた。


 養父は小柄で既に髪の毛は後退しており、年齢より老けて見られたと思う。外に出ると生真面目で愛想が良く、寡黙な人だと周りから思われていたようだが、本人にしてみれば、実は文盲ゆえに、話すとたんに教養が無いのを見抜かれるのを恐れて、只、黙っていたに過ぎないと思う。

 直情気質もあってか、思いを巧く言葉にし、相手に伝えることが出来ない人だった。誰でも一言二言話せば、この人は損なタイプと気付く筈だ。家庭でしか暴力を振るえない質で、特に自己の弱点に触れられると、突然怒り出し、顔を真っ赤にし、子供にまで、手を出す内弁慶タイプの気性。心の弱い可哀想な養父。何事も理性より感情が優位に立つ人だった。

 養父の趣味は、パチンコ、浪曲鑑賞、長(山)芋 (自然薯)掘りだった。日曜日、私が家に居るときは一緒に聴け、と付き合わされ、正座をして浪曲を聴かされたものだった。

 お陰様で、広沢虎造、天中軒雲月、二葉百合子、ほか十数名の浪曲師と名曲、そして、 歌謡浪曲の三波春夫と村田英雄の名曲・名台詞は、いまもしっかり覚えている。

 春や秋になると養父は、シロをお伴に連れ、近くの山へ出掛けては、自然薯を掘って持ち帰るのが好きだった。時々、私や筆母も付いてくこともあった。ドングロス一杯に秋の幸や自然薯などを詰め込んで開宅したとき、義母の笑顔を見るのがましかった。もちろん、子供の私が出来ることは、キノコやしめじ等を獲ることしか出来ない。いつも歩くの が遅いと叱られ、シロとジャレ合って遊んでばかりいた。

 劣等感の強い養父だが、酒もタバコも風俗にも関心を示すことなく、純真無垢で真面目な樵が服を着て歩いているような男だった。

 今、思うに、山の生態や草木に詳しい養父から、もっと学んでおけばよかったと悔やむことが度々ある。

 この頃、何故か、近所の噂では、養母は、実は養父の実母ではないか、との変な噂が広 がった。

 郷里の妻と離婚した養父が、子供(私)を引き取り、母(養母)と息子(養父)の二人 で育てているのだ、と、全く根拠の無い流言飛語が流れた。

 そんな訳で、養母は、この頃から余り外出しなくなり、私のお遣い物が以前より増え、当然家の中は暗くなり、陰麗な雰囲気になった。訳の判らぬ私でも周囲の視線や噂で、養父母の歳の差を意識せざるを得ない、複雑な心境に置かれることとなった。

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続く。

問い掛け-8

<新しい家族>

 或る日、仏間に鶴の紋の入った仏壇が据え置かれ、驚く間もなく、その日から朝晩の御題目が始まり、義父母と共に配も分からず手を合わせることになった。

 多分、これが生まれて初めて宗教に触れる儀式のひとつではなかろうか。

 言う迄もなく、華父が創価学会員に折伏され、入信し仏壇を購入したのだろう。

 五歳の頃と、そして小学四年のとき、養母と一緒に 富士の大石寺へ参拝したことがあった。

 この頃から大人の出入りが多くなり、学会員の方たち家に来ることもあり、養父の収入も増えたためなのか、白黒テレビやタンス等、家具がひとつとつ並びだした。

 いつの日か、養父が真っ白な子犬を連れて戻って来た。シバ犬に似た足の短い雄犬だっ た。 こは「シロ」と命名し、又、 どういう訳か、その日、虎毛の雄猫が居付き、 仕方なく養母は、その猫を「タマ」と名付け可愛がることになった。いつの間にか佐伯家に扶養家族が増え、賑やかになり、環境が一変したのは私だった。

 外に渇愛を求めるかのような行動は、その日からピタッと止まり、依然興味を向け出した興味がシロとタマに注がれたからだ。

 朝から晩まで彼らと遊ぶのが日課となった。しかし、当然のようにシロはコマのような成犬でなく子犬なので直ぐに疲れて寝てしまい、一方、猫のタマにも限界はある。手加減しない子供にいつまでも遊ばれるほど二匹は忍耐強くなく、直ぐ逃げてしまう。

 そのうち、二匹と私は、一定の距離を置いて接する,、不思購な不文律が出来上がり、お互いに氣が乗ったときだけ遊ぶ、そんな真摯な協定が出来上がっていた。

 結局、彼らとの関係は、兄弟からライバルになり下がり、家族の中で一番低い位置に在るのは私だった。なぜなら、養父が一番に可愛がっていたのは犬のシロであり、次にタマ、そして私は三番目であったと。少なくとも当時の私の目にはそう映って見えていた。

 養母だけが、比の可笑しな協定を微笑ましく眺めていたのではないだろうか。






<死とは無に帰することなのか >


 小学校に上がる前、養母から読み書きを教わり、また周りに在る事象すべてが文字になることや物事の仕組みや世の中の単純なシステムについて判かる範囲で教えて貰った。しかし、なぜか既に左利きの癖が付いており、矯正が難しいため、結局文字は右手、絵は左手で書くことで妥協した。

 或る朝、庭にモグラが死んでいるのを見つけた私は、養母に、「なぜ、寝たまま動かないのかなァ。」と、問いかけると,「このモグラさんはね、もう死んじょるんやね。死んじょるということは、 もう動かんのじゃよ。もう、魂が抜けちょるから、このまま放っておけば、腐って骨になってのお、後は土に還るんじゃよ。」と言われ、無言のまま一緒に穴を掘って埋め、その間際に養母は、 「一明よ。一明も死ぬんじゃぞ。年をとってのお、おじいさんになって身体がだんだん動かなくなり、いつの日か、一明も、このモグラと同じようになるんじゃよ。かあちゃんもとうちゃんも同じじゃよ。人も皆、他の動物たちも大きな木も花も皆んな同じように死んで、そして生まれ変わるんじゃよ」 と。

 私は黙って聞いていた。というより意味がよく分からないまま動転してしまった。

 養母から「死」や「魂」、そして「生まれ変わり」について聞かされたのはこの時が初めてであり、それ以前の記憶がない。

 そもそもが、死の意味さえよく分からぬ私に、モグラの死骸を前にして、自分だけでなく養父母さえも死ぬのだと知らされたとき、強い衝撃を受け、言葉が口から付して出なかった。

 もちろん、それまでに小さな虫を叩くなど、殺したりして、動かなくなることは経験で 判っていた。しかしまさか、自分と両親、まして虫以外の大きな小動物さえも、死んでしまうものだとは、考えられないと言う思いで聞いていたのだ。


 養母は、死や魂、転生の理念についても語ってしたと思う。また、朝晩の読経の意味合いに触れ、死生観と仏教、そして人の心についても、何か難しいことを私にも分かるように話していたのではなかろうか。

 しかし、その時の私は、「死」とは、今の自分が消えてしまい無くなるものだと思い込んだためか、頭の中が凍てついてしまい、思いを巡らすには至れなかった。義母の声は耳を掠めるばかりで、死んだモグラのビジョンがいつまでも瞼に焼きついて離れなかった。

 顔色の変わっている私を見て、養母は、「死んでも魂は転生するんじゃ。」 と言って、朝晩しっかり拝むことや、それで救われるんじゃと、確かにそれに近い説明をしていたのではないかと思うが、でも、魂や転生についての内容は忘れてしまい。 死ぬと無に帰するような感覚しか残っていなかった。残念なことに、それだけしか・・・・。


 或る日の午後。同い年のR君の家へ遊びに往く途中、田んぼの畦道を歩いているとき、 突然「死」の恐怖に襲われ、立ち竦んでしまった。

 自分が死んで無くなるということは、もしかして、今、考えているこの僕自身の 思いや心(意識)まで、同時に消えてしまうのだろうかと。

 当時六歳の私が、難しい言葉を並べ立てて、論理的に考えることは出来ない。しかし、 その時の「死」の恐れと自我の消滅への虚無感を言葉にするとなれば、その通りだった。

 僕自身が消えて無くなる恐怖。今まで自分を意識し、イメージしてきた、この姿と気持ちの根源そのものが全て消えて無くなるなんて信じられない。無に帰することへの恐怖。

 まさか、そんな筈はない。そんなことになったら、もう大変じゃないか

と、死の先を考えられる筈もなく、真暗闇の中で突然足をすくわれて、底無し沼に引きずられるような戦慄を憶えた。そんな恐ろしい虚無の隙間に落とされ、凍てついたまま・・・・。

 自我の消滅が死であり、死が無に帰するものであることを恐怖の同義語として思い込んでしまった。そんな一日であったことは間違いない。

 翻ってみると、死を意識し、精神世界やオカルトに惹かれるひとつの原因がこれなのかも知れない。




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続く。

問い掛け-7

<手弁当>


 越した先は、窪地に置き捨てられたような薬草き屋根の一軒家。

 縁側も土間も仏間もある三間の母屋造りで、広い庭が今も印象に残っている。

 それでも、台風や大雨に遇うと決まって床下浸水に至る低地で、周囲の高台は殆んどが 瓦葺き、もしくはトタン屋根の新築ばかりが建ち並び、まるでここだけが時代に取り残されたような、そんな異空間を醸し出す古い家だった。



 朝、眼が醒めると、こころ弾む愉快な通園が待っているのだ、と思いきや。

 天井の模様がいつもと違っていると気付き,ハッとする私。 昨日までの現実とは違い、既に新たな一日が始まるのだと悟った私は再び潟愛の独り歩きを始めた。

 殆んどー日中、外で遊んでいるため、相変わらず昼を過ぎても帰ろうとしない。でも、 大人しく家で過ごしたこともある。それは雨の降ったとき。

 既にその頃から絵を描くのが大好きで、クレヨンでアニメマンガの色塗りや, 模写をし て、ああでもないこうでもないとブツブツ言っては独り楽しく紙面を彩っていた時だ。



 或る日、迷子と勘違いされ、子供のできない夫婦に親しくされ、そして数日後、唐突にも、その夫婦から

「是非、一明ちゃんをうちの養子に。」

と、改めて懇願されたとき、養母の顔は、怒り心頭に発してしまった。

 養母は、その夫婦を無視し、私の手を掴み、引き摺るようにして、その場を立ち去った。 それからの私は、何日も外に出して貰えず、凝っと我慢の日々が続いた。ところが、養母の留守中に飛び出すこともあり、その都度、養父に叱られ、焼処(やいと)の折檻を受け、あちこちが水膨れになり、今も痣として返っている。

 結局、養母は、きかん坊の私に折れてしまい、手弁当を持たせて外に出す案を考えたの だ。 毎日、園児服の姿に弁当とクレヨンの入ったバッグを肩に掛け、近所やそこかしこの農家の縁側に座り、隠居然とした故老のおじいさんやおばあさんたちと、拙ない言葉を交わして、弁当をひろげていた。又、神社の境内やバスの停留所のベンチに座って、独り楽しくバクバ クと美味しそうに食べていた記憶も浮かんで来た。

 母の面影を追い続けるのか、いつかきっと探し出せるのだと健気にも信じているのだろうか、それとも、その別離の空白を置すための独り歩きなのか・・・・。

 数奇な運命とは申せ、本当に風変わりで可笑しな私(子供)だと思う。

 このような私でも、自由奔放に放って置いて呉れたのは養母だ。やはり、達観した、醒めた人なのかも知れない。

 先の夫婦のご主人は、タンカーの船長だった。子供(私)の将来を考えると養子に遣ることの方が幸せに成れる筈だとの流言もあった。

 私が新聞配達をやり出して、中学三年になる前、 母がポツリと呟いたことがあった。 あの夫婦にー明をあずけていたら、一明をこんなにまで苦労させんでもよかったのにと。

 実はもう一組。 私が小学生の頃、養子にと、懇願される人がいた。




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続く。

問い掛け-6

<独り歩き>



 一九六三年。養父は職安へ行き面接の結果、日産の自動車部品工場に転職することが決 まった。

 そこは神奈川県厚木市。引っ越し先は、町外れの片田舎。

 タクシーから降りて、地図を頼りに転居先の農家を探して歩く親子三人。

 山と竹林に囲まれた基葺き農家が点在する真冬の薄暮。

 小さな牧場も見えるのどかな風景。養母の手をわし掴みにし砂利道を不安定な足取りでセカセカと歩く私。徐々に視界が薄暗くなり、寒さに身を縮こませ手をポケットに入れた。勾配の脇道に入ると、右手に大きなコンクリート升の貯水溝が目に飛び込んできた。

 思わず足がすくみ立ち止まった。躰が堅くなる。水面に反射する裸電球の外灯がキラキラと輝き、波校で更に大きくなる。初めて見る不思議な光景に眼を奪われた。

宇部の山奥では見たことのない外灯。そして、なによりも、吸い込まれるような庭の見えない貯水溝が怖くてたまらない。それからの私は貯水溝の前を横切るとき、必ず離れて歩く習慣が身に付き、又、風呂やプールまで大嫌いになってしまった。(因みに水を克服できたのは小学四年の夏だった。)




 転居先は、知人に紹介された農家の納屋の二階だった。

 環境が一変し、隣り近所に住宅が在るのも幸いしたのか、私の日々は、まるで冒険のような有様で、人見知りもせず、環境の変化に気おくれすることもなく、何んにでも興味を抱いた。

 どういう訳か、家で凝っとしておれない性分と、養母に思われてしまった私は、養母の制止を振り切り、毎日、家を飛び出す始末。

 数日前、愛犬のコマを宇部に置いて来てからの私は胸の裡で、なぜ、どうしての問い掛けと共に 寂しさと混乱の中で、コマを探そうとしたのかも知れない。

 言葉にならない愛別離苦の切なさと不満。三歳にして三度目の引っ越しとなる環境の一変がそうさせたのだろうか。 もしかすると、これが最初の問い掛けだったのか、否、突き詰めると母への渇愛から既に問い掛けは始まっていたのだ。

 私を見守るように俯瞰する養母はそのことに気付いていて当然だった。

 一歩、家を飛び出すと昼過ぎまで帰って来ない私。往く先々の家で歓待を受け、当然のように昼食までもてなされることもあり、「一体、この子はどこの家の子だろうね。」と、周りの大人たちが心配するころになって、やっと家に帰るのを思い出すのんきな子。

 否、本心のところでは、ここにも母とコマはいなかったと幼い胸の裡で諦めるしかない、長い 一日だったのかも知れない。

遅くまで足を延ばし、幾度か迷子になり、養母を困らせたことも(※破れていて読み取れず)独り歩きは止まらなかった。

 私の独り歩きが、儚く徒労の幻想で終わろうとも、外界との触れ合いに因り、徐々に心の襞が癒されていくのだった。なぜなら、どの家にも歓待され、愛情一杯にもてなされる。 そんな空間と雰囲気に浸っていられたから。

 当時の大人は、どこの子も一緒に育て、分け隔てなく愛情を持って迎へ容れ一体になれ た。心が豊かな人が多く、穢れのない幼児を見て、だれもが遊んでくれた。

 無垢ゆえに、自然と触れ合う無私の愛。自他の区別なく、こころ和むまま癒されていた かった。誰もが備え持つ無償の愛を感応できた共有の笑顔。倖せな空間と豊かなこころが、

当時は、そこここにあったのだ。そして誰も拒むことがなかった。




 越して来てからの遊び相手がコマから大家の娘、近所の子供たち、そして不特定多数の大人たちへと様変わりし、行動範囲も拡がり、外に意識が向けられる分、世間の社会通念を、自然に習得できたのではないだろうか。独り歩きが、そんな最適な情操教育に成り得た成果だと私は勝手に思い込んでいる。そういえば独り歩きが始まる前、自立心を養う為なのか、唯一の日課 であった、朝一番のお遣いを憶い出した。

 毎朝、自分の飲むミルクを近くの牧場まで買いに往くことだった。

 小さな鍋を両手に持ち、百メートル足らずの道をこぼさぬよう持ち帰る。只、それだけのことだが、三歳児の私にとって、それは長い道程だった。帰りが遅いといっては、養父母が 二階の窓から頭を出して、「一明よーい。早よう帰らんかねーい。」

と、叫ばれることも再三だった。



 牧場の牛を遠くから眺めたり、鍋を足下に置いて山羊の尻をつついて逃げ帰り、養母か ら、「鋼はどうしたんじゃね。」と言われ、再び取りに戻る始末。

 近所の犬や猫と遊んだり、ときには道端で用を足すなどして、朝食が待っているのをすっ かり忘れてしまう、そんなのんきでお茶目な子供だった。余談だが、この頃ラジオや有線か ら流れる歌を、いつ覚えたのかワンフレーズのみ、まるで毀れたレコード盤のように繰り返し歌っていた。

 養父母の前で小さな台に乗り、ワンフレーズ歌し終わるとペコンと頭を下げ、二人に拍手をせがんだ。そして満足すると台から降り、華母の肩をトントンと叩き、もう一回歌うから聴いてくれというゼスチャーを示した。 養父母は、ならばと改まって、再び私の歌を聴いてくれる。

 ほんの数十秒だった。そして拍手をされ満足し、再び養母の肩を叩きに来る。

 この繰り返しを少なくとも五回は付き合わされたんじゃぞ、と或る日、義母は遠くを眺めつつ、三日月眼の笑顔で、「あの頃の一明は本当に可愛いかったけどねえ。」

と季節替えのとき、タンスの前で、その頃の幼児服を手に取って追憶を楽しんでいた養母の顔が浮かんで来る。

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続く。

2018年12月8日土曜日

問い掛け-5

<愛犬コマ>


 移り住む場所は、市道を挟む向かいに義姉夫婦が住んでいた辺部な山奥だった。

 山の清水を飲み水とし、小川での洗濯、夜はランプで明かりを灯す生活が始まった。




 思い返せば、既にこの頃から養父母以外に渇愛を求める可笑しな行動癖があった。

 姉夫婦の飼う二匹の犬のうち、一匹が、私に懐くようになり、そのキッカケで、夜泣きが治り、養母は喜んだという。そういえば傍らに茶色の大型犬がまるで私の守護神のよう に寄り添って坐っていたのを想い鳶色の眼。吠えることなく、いつも静かに私の動作を見つめている姿。

 あいかわらず「カックン」と、その犬にも私は叫んでいた。それ以上、別の言葉が出ないのか、覚えようとしないのか、ただただ、繰り返すだけとのことだった。もしかすると養母以上に、その犬に渇愛を求めていたのかも知れない。



 小学生の頃、養母から、その犬の名は『コマ』だと聞かされた。




 私のお守りをよく熟して呉れた、とても賢い犬だと言う。又、砂遊びの最中、私がコマの頭上からバラバラと砂を落として遊んでいたこともあった・・・・。するとコマはその 砂を避けようともせず、まともに受け、私の為すがままだったと。当然、砂は眼に入り、 眼を開けていられない。ところがコマは、両眼を真っ赤にし、凝っと坐り続けていたという。

 このエピソードを知ったとき「ウソだよ」と強く否定し、コマをいじめたような記憶がないから、と否定した。

 しかし、養母だけでなく、養父も口を揃えて、

「コマはのお、賢くて優しい我慢強い犬じゃったのぉ。眼を真っ赤に腫らして、ずっと坐っちょったからのお。一明が幼いと知っとるからっと耐えていたんじゃぞ。」

と言われ、にらみ返された。

 養母も、「コマのように我慢強い人が昔は多かったもんじゃがねえ。」

と、まるで旧知の恩人を偲ぶかのようにコマに思いを絶せ呟いた。

 犬の好きな僕が何故に、と何度も否定し、波が滋れた。

 それから当分の間、その頃の情景を想い出すたびに、胸が詰まり、喉が締めつ 思いを何度したことか。

 いまにして思うと、当時の私は、コマとの触れ合いによって渇愛が癒され、心は静謐に満たされていたのではないだろうか。むしろコマの方が幼児の内面から香気のように滲み出る歓喜の匂いに即応していたのではなかろうか。

 盲導犬や介護犬が主人の心に感応し、献身的に振るまうことがむしろ使命であるかのように。いうまでもなく、当時の私は三歳。善悪の観念もない無邪気そのものの行ないだから・・・・。




 養父が、ときどき私を自転車の荷台に乗せていたのを思い出した。走っている最中、落 ちたこともあれば足を挟んで死ぬほど泣いたこともあった。その都度、養父は顔を真っ赤にして叱り飛ばすので、痛みを癒す慰めにはならず、むしろ養父の顔が恐ろしくて泣いていた。多分、この頃から養父の直情気質を肌で感じとっていたのではないだろうか。

 こんなとき救われたのはコマの存在だ。私の感情を直ちに察し、機敏に反応したのは養父でなくコマだった。

 いつも、どんなときでも、必ず駆け付け、寄り添って呉れた。

 ときどき、養父と一緒に町へ出掛けるとき、必ずコマが走って付いて来た。まるで母親が我が子を見送るかのように、いつも同じ場所まで来て、ピタッと止まって坐っていた。

 そこからずっと小さくなるまで眺めていてくれたのだ。

  山肌の真砂の茶色とコマが重なり合い、見分けがつかなくなるまで何度も何度も振り返った。

 コマは、人の心を備えた不思議な犬だった。そして、周りに貴重な体験を与えて呉れた 愛犬であり母の化身だった。



 一方、思い返すと、何事にも寛容で自然体の美母の存在がこのような原体験を導いて呉れたのではないかと思う。

 なぜなら、例の砂遊びの最中、養母は遠くから見守りつつも、最後まで成すがままを貫き、決して介入して来なかったからだ。

 もし、コマ以外の犬なら、私は咬まれていて当然。否、むしろ犬の両眼に砂を掛ける行為自体、普通の親なら直ちに止めさせていた筈だ。

しかし、養母は、そのときの空間を、コマと私の全てを、その先までも見切っていたのだ、間違いなく、確かに・・・・。

今も、そう信じている。



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続く。

問い掛け-6

<養子同志>


 不思議なことに、私も父母も共に養子だった。この、不遇をかこつような絆は、やはり見えない糸で繋がっているとしか思えない。

 それ故、親元から話され、他人に育てられた賞父母が、他人の私をどう育て、見守って来たのか、一方、それに応へる私は、渇愛のトラウマに翻弄されながらも、その運命をどう乗り越えたのか、否、果たして来たのだろうか、その是非を問うのは愚問かも知れない。 少なくとも、この三人がひとつ屋根の下で、どんな家庭を築き生きて来たのか、その軌跡を辿ることによって、私自身の本性に近付けるのではないだろうか。

 そんな人格形成の原体験に焦点を当てなければ、物事の本質を炙り出すのは、困難で炙ないだろうか。

 そうすると、微かに残る六十年代に思いを馳せ、記憶の底に沈んでしまった遠い過去馳自分を一人ひとり呼び起こすことで、今に至った運命の結び目を一本一本縁り寄せて見ようかと思う。

 そのような訳で、当分の間、寄り道をさせて戴くことになりますが、どうかあの二歳の

男の子の追体験だと思い、温かくお見守り頂くよう、お付き合いをお願いします。




 佐伯家に入籍する直前。

 養母が私の身体の異状に気付き、父にその説明を糺した処、取る医師が、四歳まで脱腸の手術は無理だと教えられ、仕方なく、そのまま放っているのだと聞かされ、「そんなバカな・・・・」と言って共に驚いた。

 陰嚢(ふぐり)が挙大にまで膨らみ痛くて歩きにくい筈なのに、私は平気で歩いていたという。

 見ていて痛々しく感じる養父母たちは、その説を断固否定し、早速、知人を頼って手術の出来る先生を探し出し、なんと二歳半のとき、無事手術に成功したのだ。




 養父母の私への愛情は実父母のそれよりも遥かに深く勝っていたのがよく分かる。

 その頃の写真を見せられ、事情を知るにつけ、こんなにも膨らむものかと驚き、ひとり赤面したものだ。




 退院してから、間もなく不思議なことがあった。

 遊びに夢中になり、工事中の穴に三輪車ごと転落したときのことだった。姿の見えない 私を心配した養母が私を発見すると、なんと穴の中で無傷のままニコニコと笑って立っていた。これを見た養母は、「近くに祀られたばかりの若いお狐様だ。この稲荷様に間違いない。 ー明と一緒に遊んでおられたから助けて下さったんじゃな。」

と、小学生の頃、真剣な表情で聞かされた覚えがある。

 又、養母は若い時分、津和野和荷の或る会に所属して多くの神秘体験を重ねるうち、御神体のお狐様が夢の中で御拝謁できたと、その情景を熱心に話して呉れた。

「大きな尻尾が何本も分かれてのお、白色じゃったね。もう大分、年寄りのお狐様じゃっ たね。」

と。

 佐伯家に移り住む当初から、夜泣きを続ける私は五十歳になろうかという養母に昼夜を問わず困らせていたそうだった。

 娘を育てた経験のある世母は、如才なく家事や育児を熟なす一方、養父は私をどう扱かってよいか分からずあたふたとし、夜泣きの度に癇癪を起こしたという。養母は、養父の睡眠を妨げぬ よう私を背負い、夜空を仰ぎ見、子守り唄を歌いながら家の周りを小一時間も歩き、私を優しく宥めていた。

 その後、突然養父が肺炎で入院し、退院と同時に炭坑夫を辞め、姉(養父の姉)の住む宇部市の山奥に引っ越すことになった。

 越した先は、ところどころに穴のある藁葺き屋根の一軒家で、廃墟そのものだった。







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続く。

2018年12月1日土曜日

どうしてオウムから逃げ出したか

オウム法廷6(降旗賢一)より引用。
p133 -136裁判官補充質問(三上裁判長)




−教団を脱走したときの気持ちをもう一度言ってほしい。

「グルのマハームドラーに耐えられない、というか、ここまで先生に尽くして来ているのに<ここまで言って、突然また泣き出す>なぜ、わかってくれないのか。寝ずにいろんな選挙活動に携わったりする中で、あれもこれもと、難問のワークを支持され、ことごとくやるがあまりにも認めてくれない。それと結果が…(聞き取れず)でここまできたか、と疑問を感じ、それが積み重なってきた、というか、本当に自由がないからです。本当は逃げたくなかった」




−麻原への思いだが、そういうことを自分が繰り返すのでは、と考えていたか。

「それは考えていなかった。というよりも麻原が選挙に落ちたら大乗の思想でいく、と言ったからです。そのとき、後ろに飯田エリ子がいて、どういう救済になるかわかるか、と聞き、答えられないでいると、大乗の思想でいこう、と思うんだ、と(麻原が)言った。非合法活動やヴァジラヤーナでなくていいんだと言っていたので、もっとおかしくなると思っていなかった。かえって、選挙に落ちたら、在家信徒の信がなくなり、オウムが潰れるんじゃないか、と思っていた」




−麻原への信(がなくなった)。評価されない、やっていることはまやかしの疑いがある。ほかにあるか。

「マハームドラーに耐えられない、ということです…」




−自分のやってきたこと、教団の違法行為を話すべきだ、と考えたのはいつか。

「本当に考えたのは、3月31日、飛行機の中です(中国に行っているとき)。」




−投書をしたりするのは、駆け引き。自分の身を守る動機からで、教団に今後同じことをさせない、というのではなく、自己保身だね。

「はい。」




−もっと早く、自分たち教団がやっていることを書いたら、あれだけの犠牲者は出なかったろう、という思いにとらわれる人は多いが。

「私もそう思います」




−どうしてそれに思いが至らないのか。

「勇気がなかったんです」




−教団を抜けてからも、いくつか機会があったでしょう。どうしてそれができない。

「そこまで考えが至らなかった」




−生い立ちや、入信の経緯、それにほかの信者にも聞くと(入信動機が)自分が救済されるから、という話を聞くが、それによって、ほかの人はどうなる、という思いが希薄に思えるがどうか。

「………そうですね」




−言い方はきついが、自分が幸せになれば、ほかの人はいいのか。そういう気がしてならないのだが。

「…(無言)」




−今、振り返ってみてどうですか。

「おっしゃる通りだと思います」




−その辺、自分がどうしてそうなったか分析できるか。

「自分なりにしているつもりです」




−現在まとまっていないか。話ができるならしてください。

「自分の原体験があると思う。小さいときから自立するのが早かった。だれも助けてくれるわけではなかった。いざというとき、お金儲けにかけてはどうにかなる、と世間をバカにしていた。それに本当の親をみていない、会いたい、という気持ちもあった。現実に、自分しか信用できない。一種の排他的な考えがあったかもしれない。友達を選ぶにしても自分が犠牲的でもあったし、途中で相手が離れていってしまうこともあった。それに、養子といっても一人っ子で、たとえ人は一時的に理解しても、必ず崩れるものだ、悟りといっても、一つの状態で崩れるものだ、ということが恐ろしかった。兄弟が多い家族なら、兄弟喧嘩の繰り返しで教えられることがある。それがなかったので、自分がわからなかったところがあったんだな、と思う。学校を卒業してからの人生経験は、プラスでもあるが、マイナスの面もあって、次々に自己中心的なものがあった、と思う。狭い部分、もう一度見つめ直さなければダメだ、と。…他にも味方があるかもしれないが、言葉としてはっきりした表現ができない。また改めてしたい、と思います。




−では、いずれまたね、別の考えが出てくるかもしれない。そのときは話してください。



「……(黙ってうなずく)」

2018年11月20日火曜日

東京地裁一審第11回公判午後  証人尋問 証人:Hさん

宮前一明さんのオウム時代の親友の方の尋問です。
ごくごく初期のオウムの雰囲気がよくわかります。



<東京地裁一審第11回公判午後 証人尋問>




前略

−(弁護人)Hさんが入会されたときのオウムというのは、オウム神仙の会ですね。

はい。

(中略)

−今おっしゃったように、サンガというものを作ってから、いわば、そこでもう完全に世俗と離れて修行生活をするという形で、出家というものがそこで明確になったということなんですね。

はい。

(中略)

−あなたが言われる、悟り、解脱というのは、あなたとしては、そんな状態であるというふうに思っておられましたか。

要するに、いわゆる人間にあるエゴが死んで、本質、真我、魂といってもいいですけれども、それが、まあ表現はちょっとしづらいですけれども、真我としてあるということですね。

(中略)




−さて、オウム神仙の会なんですけど、これは、どういうことでその存在を知ったんでしょうか。

「ムー」という雑誌がありまして、その雑誌を書店で読みまして、それで知ったわけですけれども。




−それは、麻原が空中浮揚をしているというふうな雑誌でしょうか。

はい、その雑誌です。




−その雑誌を見て、どんなふうな印象をお持ちになりましたか。

最初の印象は、やはり、強く惹きつけられるというか、まあ超能力を持っているなと自分で思いましたね、その写真を見て。




−本当に麻原が空中浮揚をしていると、そういうふうにお感じになったわけですか。

はい。そう思って、強く惹かれました。




−そういうことが原因で、オウムの本部というのか、道場というのか、そちらに行くことになるんですね。

そうです。




−具体的にいうと、当時、オウムの本部というのはどこにあったんでしょうか。

渋谷のマンションなんですけども。




−そこを訪ねていかれたんでしょうか。

はい。




−そのとき、初めていかれたときは、そこには、信者としてはどんな人がいましたか。

石井とかX、飯田、Xきょうだいですね。




−麻原は、そのときはどうでしたか。

そのときはいませんでした。




−初めに行ったときは、どんなことをそこで話をしたりしたんでしょうか。

この団体をどうやって知ったのかとか、これからどうしたいのとか、何かとういうことと、あとは世間一般の話をちょこっとしたぐらいですね。




−その最初のときは、オウム神仙の会について、Hさんとしてはどんな印象をお受けになったんでしょうか。

アットホームな感じで、本当に好感を持てる、惹きつけられるような部分はありまして、堅苦しくないし、そういうところで惹かれましたね。




−そういう印象をお持ちになって、それからまたオウムの本部に行かれていますよね。

はい。




−そのときは、今度は麻原にお会いになったんでしょうか。

そうです。




−それは、麻原と会うというような約束をして、次のときは行ったんですか。

ええ、たしか、石井から、いついつくるからということで、そのときにこればということで、行ったわけです。




−その時の麻原の印象は、Hさんとしてはどんな風に受け止められましたか。

最初に見たときは、やはり、インドにいるヨーガの業者とか、そういう感じを受けまして、そういう意味で、惹きつけられる部分も前から持っていきましたんで、興味を持ちまして、普通にだれとも分け隔てなくにこにこしながら話してくれたんで、こういう人ならいいなという風に思ったわけです。




−麻原とも、いろんな話をそのときにされていますか。

はい。




−どんなことを話したかはご記憶ありますか。

結局、どうやって知ったのかとか、これからどうしたいんだということとか、あとは、私の過去を、つまり、精神世界の何かやっていたかということで、ラジニーシの関係をやっていたということとか、そういう関係をお話ししましたけど。




−そのときは、非常に麻原に対してはいい印象だったんですね。

そうです。




−本当に修行を一生懸命積んでいるなと、そういう感じを受けたということになりますか。

はい。

(中略)

−そうすると、もうそうなってからは、どちらかというと、麻原のそばにいて、麻原についていろんな活動をするというか、そういう状態になったわけですか。

そうですね、石井とともに。だいたい、私と石井がそばにいて、いろいろ行動しましたけれども。




−そういう風に麻原がHさんのことを気に入ったというのは、どういうことが理由だというふうに思っておられましか。

精神世界を私は独学で随分やっていたもんですから、そういう系統のことをよく知っているということと、それから、自分自身が独自で神秘体験をしたものですから、それも経験というんですか、それから、あとは、(※他団体)というところで、そういう出家生活みたいなことをやっていたということですね、その三点だと思いますけれども。




−そういうところで麻原から評価されたというふうに思っておられるわけですね。

はい。




−その間、麻原から、シャクティーパットというんでしょうか、そういう修法を受けたというようなことはありますか。

あります。二回あります。




−それを受けたときは、どんなような体験をされていますか。

私が独自でなった神秘体験と非常に似ているんですけれども、尾てい骨に眠っているエネルギーがあるんですね、そのエネルギーが背骨を登っていって、実際の背骨じゃないですけど、まあ背骨の方を沿って上がって、頭部にそのエネルギーがいくわけですけれども、そのときには、生まれて初めてというか、そのすごいエクスタシーがくるんですよ。もうどうなってもいいぐらいのすざまじいエネルギーが登ってくるという感じですか。




−自分の体の中に登ってくるような感覚があるわけですか。

そうです。ものすごいエクスタシーなんですよ。それで、頭部に達すると、今度は、頭蓋骨に接ぎ目があるんですけれども、その接ぎ目がバキバキという音がするんですね。




−それを、あなた自身が感じるわけですか、音を。

はい、私が感じるんです。




−そのときは、あさはrあはどういうことを具体的にするんですか。

親指で私のみけんを、少し回しながら、マントラを唱えながら、エネルギーを出すわけですけれども。




−そうすると、そういう麻原のシャクティーパットに対して、時間的にはどのくらいでそういう状態に達するんですか。

すぐでしたね。もう親指をつけてすぐですから、ものの二、三秒ですぐ上がってくるわけです。




−ほかの弟子の方は、そんなにすぐに反応はもちろんしないんでしょうね。

いろいろ聞いてみたんですけれども、僕みちあな体験はあまり聞かなかったですね。それに、麻原はおまえはやはり相当なものだということは行っていましたから。




−そういう意味からも、麻原としては、非常に大事にしたというか、そういうことがあったんですね。

まあ、大事にはしてもらいましたね。

(中略)

−そうすると、Hさんが出られるまでで結構なんですが、教義がまとまってきたとか、あるいは、教義の内容にいろんな変化があったとか、そういうことはありましたか。

ありました。実際は、本を作り始めたときから、徐々に体系化されていったと思いますけども。




−その体系化するに当たっての教義の要素というのは、基本はやはりヨーガですか。

ええ、ヨーガです。




−それに別の要素等が入ってくるわけですかね。

密教系とか、あとは、麻原独自の考え方、そういうものを取り入れて、やったと思いますけれども。




−麻原は阿含宗にいたという経験がありますよね。

はい。




−その経験なんかも、やはりその教義の中には生かされているんでしょうね。

当然、色濃く出ていると思いますけれども。




−Hさんは、別に阿含宗のご経験とかは。

全然関係ありません。

(中略)

−麻原のことを改めてうかがいますが、最初に入ったときは、本当に修行者だということで、Hさんは非常に麻原のことは尊敬していたんですね。

はい。




−それは、やはり、いわゆる師としてあおいだわけですね。

はい。




−そのごろは、まだ麻原はいわゆる解脱をしたということではなかったんですか。

一修行者だということは言っていましたし。




−その修行者だと言っていた当時、自分が今修行中なんだということを何か示すエピソードがありませんでしたか。

ある日、ちょっと出かけるぞと言われて、Xと私と石井と麻原の四人で福生のほうへ向かったんですね。私は、そのときまで名前を聞かされていなかったんですけど、会う寸前に雨宮第二に会うと言われたんですね。それで、あるスナックか何か、パブみたいなところで会ったわけなんです。そのときに、麻原はぺこぺこしながら、もう相当偉い人なんだなというふうに僕は感じたんですけれども、偉い人と会うんだと思って僕らも緊張したんですけど、そのときに、雨宮にいくつか質問しているわけです。それで、その内容が、麻原が雨宮にミカって、私は、あるビジョンとか、いわゆる光の体験とかがあるんだけれども、こういう現象というのは、自分はどういうレベルにいるんでしょうというようなことを聞いたんです。それで、雨宮は、そうかと言って、笑いながらお酒を飲んで、それで終わってしまったんですよ、結局、明快な答えというのは得られずに、それで、僕もそのやりとりを見ていて、ああ、まだまだだなというのは、そのときには思ったわけなんですけれども。




−それは、麻原も非常に謙虚な態度で雨宮に聞いているということだったんですか。

すごい謙虚で、一瞬、はた目から見れば弟子じゃないかと思うぐらいに感じましたから。




−その雨宮という人がどういう人物だというのは、その後とかに聞いてはいませんか。

その後には、本とかもだしていたですね。それをちょっと読んだ覚えもありますし、まあ相当なものなのかなという感覚を受けましたけど。




−麻原と具体的にどういう関係にあるかということは、わかりませんでしたか、結局。

結局わからないですけれども、まあ、雨宮のほうは、おまえは弟子なんだと言っていましたし、麻原は麻原で、いや、おれは弟子なんかになった覚えはないと言っていましたけれども。




−そうやって雨宮のところに行ったという体験は、その一度きりですか。

そうです。ただ、その後に、雨宮は弟子を連れて何回か渋谷のマンションにおとづれています。




−そのときの態度は、やはり、むしろ麻原が雨宮を立てるという関係がずっと続いていたわけですか。

そうです。お布施もしているはずですね。




−そういうことがあって、その後、どうも麻原に対して、これはおかしいのではないかという不信が芽生えたということがありますよね。

はい。




−それは、いつごろ、どんなことがあったからでしょうか。

それで、雨宮とのその体験からだいたい2ヶ月ぐらい後、7月ぐらいだったと思いますけれども、ヒマラヤへ何回か行っているわけですね。それで、ある日、帰ってきたら、急に、おれは最終解脱をしたと行ったわけですよ。それで、びっくりしたわけですね。それまで、たかだか2ヶ月前にそのような状況で、いきなりヒマラヤへ行って解脱したなんて言ったわけですよ。半分僕は信じられなかったんですね。それで、信者にしてみればすごいことだから、みんな集まってきて、麻原を前にして、私が横にいて、麻原がいて、石井がいたんですか、その前に信者がいたんですけれども、それで、いろいろな質問をしてきたわけですよ。どこで解脱したんですかとか、どういうふうに解脱したんですかとか、何かいろいろな質問を受けて、最初はいろいろ受けていたみたいですけれども、最後のほうになって、やはり答えづらくなってきたんですね。それで、横にいた石井に、なあ、おれ、最終解脱したよなと問いただしたんですね。それを横で僕は聞いたときに、これは全くうそだなという、うそをついているというのはすぐわかりまして、それからが不信の始まりですね。




−なぜ、石井にそういうことを聞いたことが、うそなんだというふうに思われたんですか。

ですから、もともと主観的なものであるものを、自分のことだけの体験なのに、第一、人に問いただしてわかるような問題じゃないんですよ。それも、悟ってもいない自分の弟子にそういうことを言うこと自体がもうすでにおかしいんですよ。だから、これはうそだと、もうすぐわかりまして。




−そういうことがあってから、その後、あさはrあに対する信頼感というのは、どんどん悪くなっていったんでsか。

はい。




−悪くなったのは、今の解脱したことがうそであるということが一つ基本にあるわけですが、ほかには、麻原を信頼できなくなる出来事として、どんなことがあるんですか。

ですから、おれは超能力があるんだと、まあ確かにありましたけれども、ありもしない自分の超能力を、あるあると言うわけですね。例えば、いろいろな問題を持っている信者さんがきたときに、前もってだれかから情報を入れておいて、それで、初めて会ったときに、それをすらすら言うわけですよ。そうしたら、みんな驚くわけですよね。どうだ、おれは、なんでも見通せるんだぞということを言うわけですよ。そういうまやかしとか、それとか、以上に猜疑心が強かったもんですから、ある人をスパイだといきなり言い出して、私に、スパイしろということで、そういう行為をされたり。




−そうすると、そういうひとつひとつの出来事が、Hさんからすれば、解脱した人間のやることじゃないと、そういうことなんですね。

全然そういうふうには思いませんでした。




−それで、日増しにどんどん不信感が強くあなっていくという状況ですか。

はい。




−そうやって麻原に対して不信を持っているというのは、周りにはあまりいなかったんですか。

というか、岡﨑くんとは、そういう話は、核心に触れるまではいかないですけど、話したことはありますし、もともと、そういう麻原に対する不信とか、疑惑と言ったら言い方がおかしいけど、そのようなことをだれかに言った途端に、それが、つうつうで、すぐあさはrあの耳に入るようになっているんですよ。ですから、周りじゅうスパイがいるみたいなもので、とtも言えるような状況じゃないんですよ。もしばれると、とてつもなくどなられますし、つらい修行もまたいきなりさせられるという状況でしたから。




−その今おっしゃった、つらい修行とか、具体的にいうと、麻原の気に入らないとどんな目にあうんですか。

例えば、僕はこれはそうじゃないかと思うんですけれども、いきなり私に頭陀の行をやってこいと言い出して、ほとんどお金も持たせずに、何も持たせず、山へ行ってこいというわけですよ。それで、まあ私は行きましたけれども、結局、そのときも、このままもう逃げようかなというのもあったんですけど、維持もありまして、結局、一週間ぐらいで帰ってきたんですけれども、そのときも、やはり、おまえはああやっていただろう、こうやっていただろう、おまえの心のうちはこういうふうだっただろうと僕にいうわけですよ。そうじゃないんですけれども、なあ、おれは当たっているだろうと言って、おれはおまえを全て見ていたんだぞというんですよ。それを聞いて、またもや、あんだこいつと思っていたわけですね。




(中略)

−昭和62年の1月に、丹沢で宗教セミナーというのが行われていますよね。

はい。




−それに、出られた記憶ありますか。

ええ、出てます。




−そのセミナーで、いわゆるポアというものについて麻原が説法したという事実があるんですけれども、それをあなたは記憶されていますか。

おそらく言っていたのかもしれませんが、私は記憶にないんですよ。というのは、そのころはもう、またおかしなことを言ってるなとか、そういう頭でいるものですから、真剣にその教えを請おうなんていうキアさらさらなくて、もう頭の中は、ただ出たいなとか、そんなことばかりでしたので、内容は全く聞いてないと思います。




−そのころ、例えば、マハームドラーというようなこととか、ヴァジラヤーナの教えというような教義、そのころにあったかどうか、ちょっとはっきりはしないんですが、そういうふうな教えを麻原から聞いたという記憶はどうでしょうか。

それもないんですよ。




−例えば、ティローパ、ナローパという師弟関係の話とか。

その話は、知ってましたけれども。




−アマルカ、ミラレパとか。

はい。




−それは、もうすでに知識としてHさんの中にあったわけですか。

もともと、オウムを知る以前から知ってましたから。




−そのことを聞かされて、別にHさんにしてみれば、それを聞いたからといって、どうってことはないということですか。

真新しくはありませんし、かえって彼独自の考え方を取り入れてあるから、よけい聞くのがイヤなんですよね。不信ばかりが募るばかり。だから、聞かないというか、記憶にないのは、そのためだと思いますけれども。




−最終的にX年のX月に脱会してますよね。

はい。




−そうなった直接のきっかけというのは。

直接のきっかけは、Gくんという信者が、(麻原が)あいつは(阿含宗の)スパイだということで私に尾行しろと言って、で、変装までしてつけたわけですよ。だけど、一体おれは何をやってるのかという自問自答で、不信どころじゃないなという、もう出るしかないなという結論に至ったわけです。もともとGくんは僕も親しいほうでしたから、彼が(スパイを)するわけはないということは確信してましたし、猜疑心が強いということも知ってましたから、イヤでイヤでしょうがなかったんですね。




(中略)

−先ほど、ここにいる岡﨑くんのことが話に出ましたけれども、岡﨑くんとあなたが知り合いになったのは、いつごろ、どんなことからがきっかけでしょうか。

丹沢でセミナー、X月に言ったわけですけれども、そのときにたまたま彼と横になりまして、それで、修行の合間なんかに話すようになったんですけれども。




−セミナーというのは、昭和X年ですね。

そうです。




−その話をしたときに、岡﨑くんについてはどんなふうな印象をお持ちになりましたか。

私も冗談とか好きなものですから、そういうことを言い合える感じがしましたし、それに修行なんかも一緒にやってたんで、すごいまじめにやってたということを感じて、ああ、まじめな人なんだなという、そういうところにひかれたわけですね。




−本当に一生懸命修行をする、というふうな態度でしたか。

まあ、仕事も一生懸命やってましたけれども。




−本の出版では、彼としばらく一緒に仕事をしたことがあるんですね。

そうです。




−そのときの仕事ぶりなんていうのは、どんなふうな。

すごいですね、その一言に尽きますけれども。結局、オウムがでかくなったというか、ほんの売れ行きとか、そういうことも含めてですけれども、彼の努力があるおかげだと思いますけれどもね。




−そうすると、それ以来、岡﨑くんとあなたは親しい間柄。

はい。




−中では、非常に親しい仲間ということになったわけですか。

はい。




−ほかの信者では、どんな人が岡﨑くんとは親しい人間だと思いますか。

あとは飯田エリ子とか、XXとか、XXとかそのあたりでしたね。




(中略)

−いわゆるHさんが持っている麻原に対する不信感、そんなことは話をして、何か議論をしたとか、そういうふうな記憶はないんですか。

言ったんだと思いますね。一回呼ばれてますから、それで。




−呼ばれたというのは、だれに呼ばれた。

私も記憶が定かじゃないんですけれども、たしかXと岡﨑くんと僕とで何か話たんですよ。その内容まで覚えてないんですけれども、それが、結局、筒抜けで、すぐ麻原の耳に入りまして、で、呼ばれてどなられたわけですよ。




−そういうことがあってからは、もう三人の間でも話をしなくなってしまったと。

三人だけでなく、みんなに。




−岡﨑くんは、麻原に対するHさんがそういう疑いを持っているということは、しってたんでしょうかね。

私の不信ですか。




−ええ。

気づいていたと思いますけれども。




−それを一緒になって共鳴をするとか、共感を持つとかというところまではないんですか。

もちろん共感をした部分もありますし、そうでないときもあったと思いますけれども。




−完全に話があうということでは、そこまではいかないわけですね。

というか、最終的な核心部分に触れるようなことまで言えないじゃないですか。だから、そこまでのことは言ってないと思うんですね。だからもしそういうことも話せるような状況でしたら、当然、共鳴していたと思いますけれども。




−さっき言われた、例えば、雨宮第二との件とか、おれは最終解脱したんだなと一緒に話したこととか、そういうことは。

そのとき話してないんです。




−全くしらないんですね。

はい。それが最も核心部分だと自分で確信してたので、それを言ったために、僕だけならいいけれども、岡﨑くんにも被害が及ぶという場合もあるじゃないですか。たとえあ、出て行けでもいいし、どなられるにしろ、つらい修行をいきなりさせられるにしろ、自分の身を守るということと信頼したその相手にも被害が及ぶということで、言わなかったと思います。




−それで、あなたはそういう系かで結局オウムを脱退するんですが、その脱退するときは、最後に岡﨑とは何か話をされてますか。

ええ、出るときに、お互い頑張ろうということを話し合いまして、電話とか、できればするし、僕からはかけられませんから彼からならするし、また機会があったら、外で営業をやってるから会うこともできるからと言ってそのときは別れたんです。




−そのときは、岡﨑くんも一緒に、ここに長くいないで出たほうがいいとか、そういうことで脱退するように誘おうというような考えは。

当然ありましたけれども。




−それは、口に出しては言わなかった。

というか、彼もどちらかというと、世間へ出ても身内の人もいないということは知ってましたし、そこまで僕は言い切れないなというのもあったということもありましたし。




−反対に岡﨑くんのほうから。

ただ、僕が出ると言って、おれも出るわと言ってくれるかなという希望はありましたけれども。




−そういう期待はあったんですか。

だけど、一緒に出ようというまでの有kは、言えなかったですね。




−反対に、そんなことを言わないで、もう少し頑張ろうやと止められたりしたことはないんですか。

いや、それもあると思いますよ。




−もうHさんとしては、いくら言われても自分としては出ることを決めたという考えだったんですか。

はい。




−最後に出るときに、岡﨑くんからお金を貸してもらったということがありましたよね。

はい、私が出ると聞いたときに、結局、私も全く無一文ですから、世間に出て大変だろうと言って、XX万円を彼から、返すのはいつでもいいから使いなと言って、私に貸してくれたんですけれども。




−それは、後で返してるわけですね。

はい、連絡があって返しました。




(中略)

−現在、あなたは、宗教とか、さっき言った精神世界の興味ですね、それについては何か、いまだに信仰のようなものを持っておられますか。

というか、独学で精神世界とか、哲学てきなものは、死ぬまで追求していきたいなとは思っていますけれども、特定の団体とかにはもう、もうというか、絶対に入りませんけれども。




−やっぱりそう思われているのは、オウムでの経験や体験が強いんですか。

そういう経験もそうですし、もともと団体というものを組み始めると、真の教えが、結局、消え去っていくわけですね。ただ、エゴの集団になっていくというだけで、それが嫌なものですから。




−そうすると、あなたとしては、本来、そういう修行のあるべき姿というのは、そういう個人的な形の修行というのが本来の姿というふうな考えですか。

決して間違ってはいないんでしょうけれども、やはり、そういう部分が非常に強くなっていくものですからね。




−組織化するということですか。

そうです。ですから、個人のほうが、まだいいなと思っているんですけれども。




−そのあなたが出られた後、岡﨑くんとの付き合いなんですけれども

、岡﨑くんがオウムにいた当時も、連絡とか、そういうのはあったんですか。

ありました。




−あったりしたこともありますか。

はい、彼から電話がきてます。




−岡﨑くんが大師になったというようなことで、連絡を受けたということはありますね。

大師というより、解脱したということで電話を受けてます。




−解脱したということで、おれは解脱したんだぞということで。

遊びにも来てますし。




−解脱したというのは、具体的に言うと、どういう過程を経たというふうな話だったんですか。

いや、そんなに詳しくは話していないと思いますけれども、こもって、それで、結局、解脱したと麻原から言われたということで。




−ホーリーネームをもらっているというようなことも聞きましたか。

聞きました。




−それを聞いて、特に印象というか感想は。

というか、もともと麻原本人が解脱していないのに、したと言ってきたものですかrあ、それを別に阻害するつもりは毛頭なかったから、そうか、おめでとうとはいいましたけれども、複雑でしたね。確かにうれしいから僕に電話してくれたと、そのことはうれしいんですけれども。




−岡﨑くんは、本当に自分で心から喜んで、Hさんにも一緒に喜んでほしいというような感じだったんですね。

はい、そういうことで電話してくれたんですよ。それはすごくうれしかったんですけれども、結局、麻原がうそをついてるということが引っかかってるものですから、ちょっとつらい部分もありましたけれども。




−岡﨑くん以外には、オウムの関係者等の接触はなかったんですか。

はい。




−全くありませんでしたか。

はい。




−ちょっと後になりますけれども、いろんなオウムの関係で事件とか、まあ活動でもいいんですけれども、そういう記事とか何とかは、ご覧になったことはありますね。

ええ、雑誌とか新聞なんかで、たまに出たのを見てますけれども。




−そういうのをご覧になって、何か特に印象とか、そういうふうなものはお持ちでないですか。

印象は、はっきり言って、またばかなことをやってるなというくらいしか思わなかったですね。




−あまり、もう強い大した関心はなかったと。

関心はありますよ。どういうことをやっていくんだろうという、つまり、何かやらかすんじゃないかとか、またばかなことをやらなければいいがとか、そういう感じでは強い関心を持ってテレビに出たときとか、雑誌とかは、必ず見てましたけれども。




−そんなふうに思われる原因というのは、どういうことがあるんでしょうかね、またばかなことをやるんじゃないかということは。

つまり麻原本人はうそつきで、結局、猜疑心が以上に強いですし、そういうところですかね。エゴイスティックという部分も非常に強かったし。




−逆に、s流程度の組織になると、麻原が、例えば、そういう人物であったとしても、組織として、いわゆるチェックしてコントロールするというのか、そういうのが働くということは、お考えにならなかったですか。

ですけれども、あの団体には特有のものがあるんですよ。制御がきかないというか、つまり麻原というのは、超カリスマ的な人物なんですね。ですから、たとえ黒のものでも、白と言えば白に向かわなければいけないんですよ。そういう特質を持っているんで、自分の理性とか、正義感とか、あるいはいろんな部分のポジティブな部分でも、ネガティブなものだと言い切れば、それに向かっていかなければいけないんですよね。




−あなたの知っている限りでは、弟子の中で、そういうことをきちっとやりそうな人というのは、もういないということなんですか。

そうですね、私がたまたま側近で、最初のうそからずっと見てますので、ですから、私は、それで出るきっかけになったわけですけれども、ほかの信者たちは、やはり一歩後というか、少し離れた部分で接触しなければいけないところがありまして、ですから、内情というのは、僕みたいに詳しく見られてないわけなんですよ。だから、結局、麻原が解脱したと言えばみんな信じるし、超能力があると言えばみんな信じるし、正しく見極める位置にいないわけですよ。だから、やはり、こうしろと言えば、当然しなければいけないし、してしまうでしょうし、一種のマインドコントロールですけれどもね。




−岡﨑くんについては、そういう麻原の、いわばマイナス部分というか、まやかしの部分と、今おっしゃっていますけれども、そういうものに、いつか彼も気がつくだろうというふうには、Hさんは思っていなかった。

はい、いつかは。




−いつかは気がつくだろうとは思っていたんですか。

はい。




−どちらかというと、早く気が付いてほしいというような感じもありましたか。

そうですね。あるいは気がついていたけれども出られない状況だったのか、つまりがんじがらめになっていて、たとえ出たとしても無一文ということもあるでしょうし、いろんな要素が働いたと思いますけれども。




−現実に彼は、その後、オウムから逃げて来てますけれどもね。

はい。




−そのオウムから出てくる前、何かあなたに相談を持ちかけられたとか、自分はこれ以上オウムにいられないかというふうなことで、そういう連絡を受けたということはありますか。

ありません。




−それは、全くないんですか。

はい。




−そうすると、彼がオウムを脱退したということを知ったというのは、いつ、どういうきっかけですか。

月日は思い出せないんですけれども、ただ、彼が脱退したすぐ後に、フォーカスという雑誌で、彼の写真がでかでかと載って出てたんで、それで知りました。




−それで、いよいよ脱退したんだなというふうに思ったということですか。

はい、よかったと思っていたんですよ、その日は。




−それでその後、岡﨑くんとの付き合いが始まりますよね。

はい。




−それは、どういうことから付き合いをしたんですか。

彼から突然電話があって、今、どこどこにいるからということで、じゃあ会おうよということで日にちを決めて、で、彼のところに会いに言ったんですね。それから付き合い始めました。




−会ったのは、山口の宇部ですか。

はい、そうです。




−そのときは、どんな印象というのかな。

私が以前付き合ってた感じと全く変わらずに、本当の親友に会えたと言う感じの印象でしたけれども。




−オウムのいろいろ教義の影響を受けて、やっぱりちょっと普通じゃないとか、そういう感じは、もうなかったですか。

いあ、全然ないですね。むしろ、かえって精神的なものを話すと悪いかなという気兼ねみたいなものがあったくらいですから。




−オウムの話はあんまりしなかった。

オウムというか、オウム自身のおかしな部分、麻原はこういうばかなことをやったとかいうことは、いろいろ聞かされましたけれども。




−そうすると、彼のほうから、麻原のいろんなことについては、口から話が出るような状態にはなっていたんですね。

はい。




−そうすると、ちょっと戻りますが、雨宮第二の件とか、石井におれは最終解脱したなと訪ねたこととか、そういうのは、そうやって岡﨑くんと会うようになってから二人で話したんですか。

そうです、話し出した。




−何かかれは感想を漏らしましたか、そういうことを話したことについて。

そういうことあったのかということで、もっと早く知らせてくれればよかったのにというようなことは、たしか言ったと思いますけれども。僕も余り、どうせ出たんだからと思って、それほど気兼ねなく思っていたんですけれども。




−その程度、お互いそんな話をしただけで、だからどうだとかいうことにはならなかったんですね。

はい、あとは冗談ばかりで。




−さて、彼は現実に、坂本弁護士一家の事件に関与しているわけですけれども、岡﨑くんに坂本事件にかかわっていないのかということをあなたのほうが尋ねたか、あるいは彼のほうからそういうことが口に出たか、そういうことはありますか。

私が尋ねたんです。坂本弁護士の事件は、オウムがやったんじゃないのかと聞いたんです。




−そのときはもちろん、岡﨑くんが関わっているとは、Hさんは全く思っていないわけですよね。

思ってません。




−ただ、オウムがやってるんじゃないかと。

オウムがやってるんじゃないかと、それは、マスコミとか、大々的にオウムじゃないかということも書き上げていましたし、そういうのを見る限り、まあ麻原だったらやりかねんなという考えで、聞いたんですよ。そうじゃないのかと言って。




−それに対して、彼はどんな答えをしたんですか。

彼は、いや、それは違うということで、多分、暴力団の関係だろうという風に言ったわけです。




−そうすると、あなたとしては、彼のいうことを間に受けたというか、そうなんだなというふうに思ったわけですね。

はい。




−そうすると、最終的にというか、本当に彼が関与してたんだというふうなことをあなたが知ったというのは、いつの時点になりますか。

サリン事件の後、2ヶ月後ですか、五月ごろに、彼から突然電話がありまして、実はもう会えないということで、どうしてと聞いたら、実は坂本事件にかかわっているんだということで、そのときに聞かされました。




−そういうことを電話で聞いて、そのときは、あなたとしてはどんな気持ちになりましたか。

ものすごいショックでしたね。悲しいとしか言いようがない、別れるのは、つらいというのもありますし、いわゆる麻原に利用されてしまったという、その部分が悔しいというのと。




−その後、またいろいろとマスコミでオウムのやっている事件とか、いろんん報道がどんどんなされるようになりますよね。特に平成五年くらいになってきますとね。

ええ。




−その当時、ひょっとしたら岡﨑くんがそういう事件にかかわっているんじゃないかというふうなことは、あなたは考えたことはありませんか、その電話を受けるまでは。

まあ、彼は出ていたし、おそらく、そういうことはないなというふうに思っていました。




−現在、ご承知のとおりですけれども、いろんなオウムが犯罪行為をやっているんですけれどもね。これは、どうしてこんなふうになってしまったか、あなた自身の過去のオウムにおられたときの体験、経験から、なぜそんなふうになってしまったというふうに、今、思っておられますか。




−事件を犯したオウム全体としてですね。

私は、たまたま近くにいて麻原のそういう素姓とかがわかったんですけれども、ちょっと離れた人たちには、その素姓がわからない部分、ですから、この人が本当の師であるということをずっと認めてるわけですよね。だから、そういうことで、彼はまじめで、そういうところがありますので、だから、こうしろといえば、やっていったんだと思いますけれども。




−彼というのは、岡﨑くんのことをさすわけですね。

はい。




−ただ、岡﨑くんに限らず、ほかにも、いわば、そう言っちゃあれですけれども、社会的にいえば、かなり高学歴でエリートと言われる人たちが事件を起こしてますよね。

はい。




−これは、どうしてそんなふうになったか、そういう一般的なことで結構ですけれども。

一般的に言えば、他の人たちに関して言えば、宗教的にもそれほど深い理解を持っていませんでしたし、むしろ博士の状態みたいな状況でしたけれども、そういうところで麻原独自の案が絵を埋め込まれたら、それはそのとおりだというふうに思ってしまうのは当たり前だと思うんですよ。だから、疑いなく、まあ、疑いを持った人もいるかもしれませんけれども、ほとんどもう、そういうことでやってたんだと思いますけれども。




−ただ、学歴なんかのある人であれば、まあそうでない人は別として、一応、特に自然科学系の信者の人では、結構多いですよね。

はい。




−そういう人たちが、いわば別の意味での異質なそういう教義を信じて、しかも、犯罪行為まで、いわば平気というか、それを受け入れてしまうというか、そういうことについては、何か原因として思い当たるような、自分としてはこう考えるというようなことはありませんか。

科学的なものに知識を持っていても精神的なものに知識がなければ、結局、麻原が全てだと思っていれば、知識がそういう精神的な面が深くないわけですから、わからないと思いますよ、いくらほかのものでは秀でていても。




−いわゆるチベット密教には、犯罪行為もその宗教のためには許されるんだというふうな教義もあるように聞いているんですが。

はい、実際それはありますけれども。




−ただ、別にその教義があるから、どこでも犯罪が行われているということではありませんよね。

はい。




−正にオウム特有のものですよね。

そうです。これは、麻原独自の考えですね。彼の性格が、もろ現れた教義だと思いますけれども。




−そういったものに、やはりそういう信者たちがみんあ従わざるを得ないというのは、今、言われたように、やっぱり精神的な部分では自分にしっかりしたものがないからだと。

精神世界に関してですね。




−それが原因だろうということですかね。

はい、それもあると思いますよ。




−ただ、あなたは麻原のそばにいて、そういう麻原の実態というか、実像を見て来たから、ある程度気がつかれたというふうに言いましたけれどもね。

はい。




−古参の幹部、特に岡﨑くんなんか割合に古参になるわけですから、そういう意味では、岡﨑くんもそれを気がつきうる立場にあったということはないですか。仮に、それを彼が気が付き得なかったとすれば、それは、Hさんの場合と違うんでしょうか。

私そのものは、一度体験してますよね(※Hさんがオウム入信前に修行していた団体名)というところで。そういう体験に裏打ちされているものもありますし、そういう精神世界の関係の本も読んでいたということもありますし、そういうところの差が、やはり体験という差が大きかったんじゃないかと思うんですけれども。




−やっぱりあなたは体験に裏打ちされているから、いわばこれが違うということが自分の実感としてわかる。ただ、岡﨑くんの場合は、そこまで見抜ける素地がないというようなことが、やっぱり大きな差になるんでしょうかね。

だと思いますけれども…そうですね。




−今思えば、あなたが脱会するときに、やっぱり岡﨑くんを一緒に誘って出ればよかったというふうな気持ちというのは、持っておられますか。

持ってます。特にあの事件とのかかわりがあったということを聞いた時は、本当に悔しかったですね。




−嘆願書を示したいんですが、よろしゅうございましょうか。

(裁判長)いいですよ。

(検察官)はい。




−(H作成名義の嘆願書一通を示す)これは、あなたがご自身で今回おかきになって、持ってこられたものですね。

はい。




−この仲に、今述べられたようなこととかが書かれておって、それで最終的には、あなたの気持ちとして、岡崎くんの罪を少しでも軽くしてくださいということをお願いしたいということが書いてありますね。

そうです。




−今の気持ちは、そういうお気持ちでおられるということですか。

もちろんそうです。




−ただ、彼のやったことは非常に重大な事件ですよね。それにもかかわらず、あなたとしてそう思われるというのは、どうしてなんでしょうかね。

やはり、麻原の巧妙なうそという形で人をコントロールしていって結局、信者たち、特に重大犯罪にかかわってしまった人たちにマインドコントロールというんですかね、そういう面が色濃く出ているんですね、私はいたから分かるんですけれども。そういうことを考えてみると、結局、彼も被害者じゃないかと思って。だから、もちろん親友ということもありますけれども、私もいた経験上、それがわかるものですから。




(中略)

−何かヨーガの修行を、(Hさんの入信前も)されておられたんですか。

いや、それはしていません。本では独学でずっと研究はしてましたけれども、それ、そのものの修行は何もしてまsねん。




−そういう神秘体験もおあいりになったことから、精神的な世界の中に関心をお持ちになったというお話ですね。

強くもって、団体に入った方がいいかなという。




−その入る目的は、悟り、あるいは解脱の境地に達したいと、そういうことなんですか。

はい、そうです。




−何がゆえに、悟りの境地に達したいというふうにお考えになったんでしょうか。

何が…




−大変難しいことを伺っているんでうけれども。

人間は生まれれば氏があるわけで、結局、その死を、ただ、単純に自分の欲望だけでいくこと自体に矛盾を感じていて、それで、んん源として、最終的なものは一体なんなのか、真理とは一体何かというところから、結局、悟りこそが全ての答えだということに至ったわけです。




−多くの若い人、中には若くない方もいらっしゃったようですけれども、そういう人たちが、この麻原の教義といいますが、開いたオウム教団に惹かれて入会したり、あるいは入信したり、あるいは出家したりと、こういうことになってきましたけれども、それはやはり今証人がおっしゃる悟り、あるいは解脱の境地に達したいという気持ちから、ここえ入って来ているんでしょうか。

いや、一概にそれだけじゃないですね。超能力を得たいとか、例えば、病気を持ってる方は病気を治したいとか、いろいろいましたけれども。




−その割合を私はうかがいたいんじゃないんですが。

どうして至ったかということですか。




−ええ、どうしてそういうところに。

結局、この西欧社会というか、日本は科学的には随分発達しましたけれども、精神的なものは随分遅れているわけなんですね。ですから、その精神的な部分というのをどこかで補おうという、多分意識が働いて、若い人たちは、かつ防寒というか、そういうものでいろいろな新進宗教、新しい宗教がいっぱいできていますけれども、そのようなものにのめり込んで来るんだと思いますけれども。




−そういうふうに入ってくる人たち、最初の段階は、そういう、ある意味であ非常に純粋なといいますか、自分の精神的なものを高めたいとかいう、そういう純粋な気持ちで入ってくるという風にご覧になっていましたか。

はい。




−岡﨑くんの場合も、そういう青年の一人だというふうに感じましたか。

はい、そうです。




−麻原のいんちきといいますか、でたらめな教義の中に、そういう精神世界に対する理解不足のゆえに、そういうでたらめ、いんちきが見破れないで、カリスマに引きずられていったというようなお話をされましたけれども。

はい。




−もう少し伺いますと、麻原自身が教団の中で自らのカリスマを維持し、よりカリスマの意向が届くような仕組みといいましょうか、そういうものを作っていたというふうにはおもわれませんか。

その通りだと思います。




−具体的に言うと、それはどういうふうな部分に現れていましたか。

部分…




−どういう仕組みの中に。

仕組みというか、やっぱり教義の内容でしょうね。




−例えば、カリスマというのは、証人のようにあまりに近くにいるとカリスマじゃなくなるわけですね。

はい。人間の、その嫌な部分を見てしまうとか。




−距離をあえて置くとか、そういう位置付けをするとか。

そういうのはあると思いますよ。




−何かそういうことをちょっと伺っているんですけれども。

だから結局、あまりにも近くにいすぎると、その人の本性というか、その人のいろんな部分が見えてしまうものですから。結局、一歩離れた部分から常に信者をこう、何というんでしょう…




−自分の姿を見せているというふうに。

見せていこうというか、そういうパターンは使っていると思いますけれども。




−それから、一対一の関係を維持したということも言われていると思いますが。

はい。




−そういう部分については。

そうですね。常に大勢の前で一人にこう言い合うんじゃなくて、必ず一対一で話をしていく方法をとっていましたけれども。




−それと関係して、ホーリーネームのアイデアを出されたのは、証人だというお話をうかがったんですが。

はい。




−ホーリーネームというのをつけるというのは、どういう意味からされるんですか。

もともとの意味は、正式な弟子ということですね。




−その正式な弟子ということの、いわばあかしのおうなものですね。

はい、そうです。




−なぜそういうものを、あかしとして必要とするんですか。

より強固なものにしていくためでしょうね。教団を。




−麻原氏と弟子の関係を、より強固なものに意識づけるという意味合いがありますね。

はい、そうです。




−そのホーリーネームを与えられた人たちは、麻原の真の弟子になったという、より強固な結びつきを自覚するとともに、それを喜びとしていましたか。

はい。




−岡﨑くんの場合も、先ほど話がありましたが、解脱したという電話連絡があった際に、ホーリーネームをもらったということを喜んでいましたか。

はい。




−それから、修行の結果、三グナというんですか、光が見えたり

、あるいは幽体離脱というんですか、自分の心と体が分かれて、魂は宙を浮遊するけれども、全然違う次元からのものが見えるとか、そういうような体験が、ある種の修行の結果得られるようですけれども、証人自身はそういう体験ございますか。

その神秘体験以外はないですけれども。




−それは何か呼吸法によって、脳の中の酸素が過剰になっていたり、全然不足したりすると、そういう肉体的な反応を起こすということに過ぎないんだと言われておりますけれども、どうでしょうか。

そういう説もありますね。




−それは説として撮ってるわけですか。

説もありますが、それが全てじゃないと思いますけれども。




−それは別段麻原の特有のものではなくて、ヨーガの修行自体によってそれは得られるものですか。

超能力とかそういうものですか。




−今私が申し上げた神秘体験。

そうですね。要するに、麻原でなくてもヨーガを真面目にやればなると思います。




−麻原の独自性というのは、それをハウツウのものにして、わかりやすく、やりやすくといたというふうに言われていますが、そういうことはありますか。

そういうのもありますね。




−(別弁護人)あなたは被告人と親友であるというようなことをおっしゃいましたけれども、もちろんオウムに入ってからの、短期間のお付き合いですよね。

そうですね。




−被告人を親友だと思うようになったのはどうしてですか。

どうしてって、理由があること自体がおかしいと思うんですが、ともかく直感というんでしょうか、もちろん冗談言い合ったり、いろんなことを話せるということもありますし、それ以上にフィーリングというんでしょうか、この人は本当の親友だというのを感じるんですよね。




−あなたが最初にオウムにいったとき、XXだったとおっしゃいましたね。

はい。




−そこには石井、X、X、飯田がいたと、先ほど言われたと思うんですが、この今言ったような名前の人たち、こういう人たちは、あなたが当時受けた印象なんですが、どんな人たちだと思ったんですか、例えば石井。

当時は、いつも笑顔で優しく、新しく来た人たちにも指導してましたし、決して悪い印象はない、むしろもっと親しくなりたいなというような状況の人たちでしたけれども。




−性格的に何か問題があるとか、偏りがあるとか、そのようなことを受けたことはないですか。

それはないです。




−今、名前をあげた人たちは、当時はみんないい人のような印象であったということですか。

はい。




−その中で、被告人とも知り合って、他の人たちと比べて、被告人がどこか違うとか、あなたにとって、特にあなたと親しくなるようなフィーリングがあるようなものはあったんですか。感じ方とか考え方とか修行の仕方とか。

そのまま彼のまじめさというかそういうところもあったし、修行もまじめにやるとか、そういうことで信頼もおけるし、だからそういうところで彼ならなんでも話せるものなら話していけるなというそういう雰囲気ですか。




−あなた自身も若い時からそういう精神世界に興味を持って、一途になられたこともあると、で、麻原のようなやり方がどうもいんちきであると気づいて離れていったと、あるいは前に所属した団体の人が、麻薬をやったということで嫌気がさしてそこを離れたと、非常に真剣に一生懸命という道を求めていたという印象を受けるんですが、被告人にもそういうところであなたと通ずるところがあったんでしょうか。

あると思います。




−そうすると、被告人はあなたが出て言った後も、オウムに残って修行を続けたんですが、かなりその変で一生懸命自分の信ずるものを求めていったということは十分ありうるわけですか。

当然そうだと思います。




−あなたが先ほど、そういうものを逆に利用されたというような趣旨のこおをおっしゃいましたけれども、そういう感じを受けているんですか。

はい。




−あなたはオウムに入る前に、なんか先ほどの話ですと、神秘体験をしたと。

はい。




−この被告人ですけれども、あなたが接していたところは、まだそういう経験はしてない状態だったんですか。

だったと思います。




−そうすると、その後彼もそういう体験をしたようなんですが、あなたが出て行った後の修行でそうなっていったということになりますね。

はい。




−あなたが現在でも被告人のことを考えていただいているわけですか。

はい。




−当時は親友だったと。現実ではどういうふうに受け止めていらっしゃるんですか。

代わりありませんけれども。




−というと、こういう事件になってるんだけれども、被告人の本質的なものは変わっていないと。

全く変わっていません。




−事件と被告人との結びつきなんですが、どういうふうに受け止められているんですか。

先ほども言いましたけれども、ある種のマインドコントロールでやらされた部分があるということと、そういうことで被害者的な部分もあるんじゃないかと考えていますけれども。




−そういうことはあなたの立場からも十分考えられることであるということですか。

そうです。




−(検察官)先ほど、麻原に対する不信感を人に話したら、麻原にどなられたということをおっしゃっていましたね。

はい。




−具体的には、どういうふうな言い方でどなられたんですか。

要するに、結局おれを信用できないのかとか、そういうことですね。




−そこをもうちょっと詳しく聞きたいんだけれども。

いやな思いでというのは、そうそう思い出せないので、どういうことを行ったのかちょっと覚えていないんです。ただどなられたということを覚えているだけで。すざまじい大声をあげて、どなられたんんですけれども。




−岡﨑がそういうふうな形で。原因はともかくとして、麻原からどなられたということはあったんですか。

ありましたよ。




−どういう原因でどなられたんですか。

先ほども話しましたけれども、Xと一緒に、彼と僕と三人で話したときに一緒にどなられてますし、それ以外では、確か、営業上の問題で石井ともめたときに、確か怒られてると思いますが、それ以外にもあると思いますが。




−あなたが知っているのはその程度だということですか。

はい。




(中略)

−被告人からオウムを脱会脱会した理由についてはお聞きになりましたか。




−なんと行っていましたか。

要するに、先ほど私が行ったようなことと似たようなことですね、言ったのは。




−もう一回いってください。

麻原がおかしなことをやってるということで、そこで嫌で出たということですね。




−その出方が、話し合ったとかいう形じゃなくて、逃げるように出て言ってるんですが、その理由について何か言っていましたか。

そういうtころは、あまり詳しくは聞いていないです。

2018年11月5日月曜日

note開設とご支援につきまして。-管理人より

平素より大変お世話になっております。
大変感謝しております。

私は、宮前さんの遺された資料等を末長く保管、研究していき、将来に役立てたいと思っております。

その際に、これまでもご支援いただいておりましたが、改めまして、資料の保管のための事務用品やボランティアさんへの交通費等にあてさせていただくために、金銭的なご支援をいただけましたら非常に助かります。

というわけで

暫定・実験でnote開設です。
平成27年に描かれた「月下の鯉」の高画質版を100円で公開させていただきます。
購入者の方はお好きにお使いください。良心で。 

月下の鯉(平成27年)−宮前吼宇


いつもありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

追記:
管理人のツイッターで、簡易的に宮前さんの手紙を公開しています。
ハッシュタグは #宮前手紙 です。
なかなかまとめる時間がとれず申し訳ありません。


管理人

2018年10月18日木曜日

2017年12月の手紙:麻原彰晃三女や上祐氏のことなど

2017年12月11日(月)

(前略)

もうクリスマスですね。ラジオからはクリスマスソングが流れます。12月は各界の話題が集中されるだけに落ち着きなく時が過ぎ去ろうとしてますね。

(※外部交通者)がプリントアウトされた「オウム集団のここ10年」等の三部を12/7に落手。滝本弁護士が2017年11/27現在として記された第2版の内容には、極めて客観的視点乍ら、裏の真相に至る資料も加えておられるので実に興味深く貴重なものです。(上祐氏に対する麻原の説法の内容とか)ただ、残念なことは、三女のリカちゃんが山田美沙子(金沢支部)さんと一緒になって活動している様子ですね。彼女(山田さん)は昔、某の部下の時期もありましたよ。もう70代になる女性ですよね。リカちゃんは弟(長男)を守るべくして彼女とともにするのか?やはり、住む世界が限られるべくもう諦念したのかな、とも。折角、アレフを出て、一人で考える自由を得たのにどうしてもオウムの連中と交わる人生しかない井戸の中。視野狭窄の堂々巡りだと全く気づかぬままではいけませんね。もう少し、高いところから視界を広げてほしいものです。

人である限り、どんな国でも、世界でも、堂々巡りの中毒症の日常ですが、だからこそ皆んなが仏で神だとね。




2017年12月28日(木)

(前略)

12/26にリカちゃんよりお菓子の差し入れが届きました。東拘に来て、売店からの差し入れです。そうすると、交通権者以外の人物でも『お菓子等の』差し入れが可能となったのですよ。知りませんでした。いつも寝耳に水のような東拘の決定後とですので(笑)

(中略)

(※管理人の仕事について)人と人との和。それには親しみある笑顔と明るさが一番です。仕事は楽しみのなかで一緒になってワクワクドキドキし乍らやることが最高の職場と。




(※上記手紙返信に山田さんは三女さんと直接関係ないそうですよと書いたことに対して)

◎やはり、いつもの滝本弁護士の思い込み的な勘違いですか。しかし、以前某もリカちゃんの生活費は、どのように得ているのか?と心配していたのですが……山田さんとは別の取り巻き連中からの献金と。やはりか。残念というか、何というか、次女と一緒になって、オウム的な攻撃性そのままの口調で反撥し続ける態度はすでに病的ですよ。ほんの出版は講談社も悪いけど、やはり次女と相談の上での世にでるためのアピールにすぎませんね。(以前も、某は書いてますが、リカちゃんはほんの仲で嘘は書いてないけど、自分にマズいことは無視してます。しかし、当時のサマナ連中は全て、よく覚へてますよ!その高慢性と残酷な攻撃行動を。6歳といっても、狂気ですね。)

思うに、彼女は将来、上祐くんと同じく分派的な指導者の道を巡る考えでしょう。アレフやひかりの輪の除名・解脱者も含め、ネットからの信者を引き込む企みでしょうね。でなければ、四女のように本名も顔も隠して、オウムだけでなく信仰の恐ろしさを自己の学んだ心理学の道から、ハッキリと断罪し、力強く一人で生き抜くと吼るべし。それができぬならば、やはり。上祐くんと同じムジナだ。



元オウムの幹部連中が出所し、国内で相当に辛い日々を送るのはよく判るが、しかし、元オウム信徒はどの市町村でも生活保護を無条件で即、受けられてもいる。プライドや別の意味で受けられないならば、いくら生きるためといえども、再び宗教心や信仰をエサにして真の修行もやらずに他人との金をあてにするのは可笑しい。上祐くんも、他の元オウムの奴らもだが真の修行や真理を求めるならば、先ずは、不食をしてから軀と心の浄化を極め、不食の体を創ってから、他人を当てにしない道を歩んでほしい。それが不可能なら一生涯、表に出ず隠遁の道しかないだろう。(※外部交通者)も多分、同じような考えかと存じます。それにしても、(※管理人)さんは要点をよく観ておりますね。

2018年10月4日木曜日

告知「死刑囚の表現展」絵の展示

【10月死刑廃止デー】響かせあおう死刑廃止の声2018http://forum90.net/event/archives/16

こちらのイベントで、宮前一明さんの最後の応募作品が展示されます。
あと、北川フラムさんがこれまでの宮前さんの応募作をまとめて総括的なお話をされるとのことです。
ご興味のある方はどうぞご参加ください。

22年前に弁護士に送った手紙とされるもの⑦(最後)



以上になります。

校正:jackie様

2018年9月30日日曜日

「夫婦鶴」の色紙を希望者の方へ差し上げている件

「夫婦鶴」は宮前さんがたくさんの人に絵を見て欲しい、思いを届けたいという気持ちから描かれたもので、個展開催の際に70枚以上絵描かれ、管理人の家で保管しつつ希望者に差し上げておりました。
先日、管理人のツイッター(https://twitter.com/akaneyamada0322)で、新たに希望者を募ったところ、予想以上の数の方にDMをいただいて驚いています。
転売防止のために、DMやアカウントを精査させていただいていること、そのためご返信が遅れていることがあり申し訳ありません。
また、発送にも時間がかかると思われます。

さらに、絵は発送先を教えてくださった方へ順番に送付させていただき、なくなり次第終了とさせていただきます。

以上をふまえ、ご希望の方は管理人のツイッターにDMか、上記メアドへご連絡ください。

こんなにたくさんの方に想われて驚いています。
宮前さんも嬉しいと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。


追記:
金銭的なご支援をいただけると助かります。
梱包材代やボランティアさんの交通費などに還元させていただきます。
http://amzn.asia/iwGMyD1

東京地裁一審第17回公判 証人尋問 証人:Fさん

教団いた頃の人柄や、教団の雰囲気、修行、神秘体験、麻原の変貌について古参信者の目からどう映っていたのかがわかります。


<東京地裁一審第17回公判 証人尋問>

証人:Fさん(オウム真理教元信者)


※個人情報を伏せるため、内容に差し支えないように編集しています。



(前略・証人の出身や経歴の確認)

−(弁護人)麻原のそばにいて、あなたは何をしたんですか。

最初は、岡﨑さんの部下として、新實さんと一緒に営業をしました。




−何の営業ですか。

麻原が(「超能力・秘密の開発法」の)次に出版した「生死を超える」という本の営業をしていました。




−今、岡﨑の名前が出ましたんで、伺っておきますが、昭和六十一年のx月頃、岡﨑も入会していますね。

はい。

岡﨑さんを最初に知ったのは、出家までは存在を知りませんでした。出家と同時に存在を知りました。




−あなたが出家した当初の岡﨑のことを伺っておきますが、どんな人物に見ましたか。

なかなか面倒見がいいお兄さんという感じがしました。




−人柄がいい。

人柄はよかったです。




−優しいとか。

優しいです。




−他の信徒、そういう人たちとの間はどうだったでしょうか、彼の場合。

出家したときはわかりませんでしたけど、四、五ヶ月、私が彼の部下になってから気づいたことは、石井久子と非常に仲が悪いということはわかりました。




−その他の人たちとの関係は、どうですか。

飯田エリ子とは恋人関係のようになっていましたけど、まあ、ほかは仲良くやっていたと思います。




−昭和62年の5月の28日から7月25日まで、岡﨑は独房修行に入りましたね。ご存知ですか。

はい。




(中略)




−岡﨑は、その独房修行を終えて、クンダリニーヨーガを成就したということで、アングリマーラというホーリーネームをもらって、大師というふうに呼ばれていましたね。

はい。




−その成就の前後で、岡崎の人柄とか能力とか、そういうことを含めて、その人物に変わりはありましたか。

押しが強くなったという意識はありますね。前々から強い人でしたけど、押しはますます強くなって、そんな感じですね。まあ、優しさは、もっともっと優しくなりましたけれど。




−能力的な点では、どうでしょうか。

私は、もうそのころ岡﨑の部下じゃなかったので、彼と一緒に接する時間が全くなかったもので、私はそのときXに行かされたんですけれども、岡﨑はずっと東京だったんで、それからは一緒に仕事したことがないんで、ちょっとわかりかねます。




−麻原に対する傾倒とか信頼とか、岡﨑に変化が見えたということはありませんか。

ちょっとそれはわからないですけれども、人の心の内面的なものなので、わかりません。




−行動の面では、例えば、成就するまでは岡﨑は麻原のいうことに全面的には従っていなくて、場合によって逆らっていたとか、そういうことがあったようですけれども。

そうですね。




−成就した後には、そういうことが非常に少なくなったとか、そういうことはありましたか。

あります。




−具体的に、そういうことで何か証人はご存知のことがありますか。

岡﨑さんが成就する前は、営業とか、私もやっていたんですけれども、あるときを境に、麻原が、あの人はズレているんで、書店に営業に行くのに、オウムの白い制服を作ったんですけれども、それで営業に行けというようになったんですけれども、岡﨑が営業部長で、それはできないとけんかして、それを取りやめた経緯がありましたけれど、彼が解脱して、また麻原がそういうばかなことを言い始めたときに、ああ、それはいいです、尊師の指示に従いますという感じで、営業へ行くのにもそういう白い制服になってしまったということはありました。




(証人の修行時期など・中略)

−その修行お内容ですが、どんな修行をしましたか。

呼吸法と瞑想ですね。




−呼吸法というのはもう少し具体的におっしゃっていただけませんか。

バヤビヤ・クンバカ・プラーナヤーマというんですけど。




−具体的には、どのようなことをするんでしょうか。

息を吸って、止めて、吐く、基本的にはそれですけれども。




−それは、どういう効果をもたらすんですか。

クンダリーニを頭頂まで持って行く働きがありました。




−実際、あなたはそれを経験したわけですか。

ええ。




−息を止めて、うんと我慢するわけですか。

呼吸を、25回の出入息を繰り返して、あとは、バンダと言われるものをやりまして、バンダというのは、おなかと、のどと、肛門を引き締めて、そのまま耐えられるだけ耐えて、吐き出すということです。




−それをずっと繰り返すわけですか。

それは、1日6時間ですね。




−瞑想は、どういうことをやるんですか。

ツァンダリーと言われている瞑想をやりました。




−具体的には、どういうことですか。

クンダリーニを頭頂まで瞑想の力によって持ってきまして、そして頭頂から順々にクンダリーニを下ろして行くんですけれども、下ろすときに甘露というものに変わりまして、それをどんどん下ろして、体の中にぐるぐる回すというのをやりました。




−そのクンダリーニというのは、尾てい骨のあたりにあるものなんですか。

はい、そうです。




(中略)

−どういう感覚が体にあるんですか。

(クンダリーニを)上げるときは、最初は熱いんですけれども、レベルが高くなってきますと、快感になります。もう快感としか言われないものが背中を上がってきますね。




(中略)

−その瞑想のときには、何か呪文とかそういうものを唱えているんですか。

マントラは一応唱えます。

もう、ちょっと随分昔のことなので忘れてしまいましたけれども。




−おぼろげにも覚えていませんか。

頭にオウムがつきましたけど、オウムなんとかなんとかと言っていましたけど。




−自分がグルと一体になるとか、グルといることが真実であるとか。

そういうマントラではないです。マントラ自体は、エネルギーを上げるマントラですね、観想といって、イメージでクンダリーニを上げ下げしているときに、麻原を観想して、それと合一していく瞑想はしていました。




−麻原を観想するというのは、もう少し具体的にいうとどんなことをやるんですか。

目の前に麻原を観想して、その麻原をまるで本物のようにイメージしながら、自分自身を切り刻んでいく。自分自身が、手に手にお供物を持つんですね。それは、灯明だったり、食べ物だったり、自分の好きなものだったり、自分の恋人だったり親だったりするんですけど、それをどんどん伏せしていって、心の中の執着を切っていくという瞑想を同時にしていました。




−そうすることによって、自分がグルと一体化する、合一かする、そういう気持ちになっていくわけですか。

そうです。




−食事は一日一食でしたね。

はい、そうです。




−玄米一杯と、それから、根菜類を煮たもので作られますね。

そうですね。




−睡眠時間はどうでしたか、

睡眠時間は、一応、4時間か5時間と決められていましたけど、修行しないで寝ているのも、別に怒られるわけではないんで、自由でした。




−あなたの場合は、どうでしたか。

私は、もう寝っぱなしでした。




−独房の環境ですが、それは、明るいのですか、暗いのですか。

真っ暗で、すごい暑かったです。一日中窓を全部ふさいで真っ暗にしていますんで、それで、一軒家の二階を使いましたんで、夏は気温が50度以上を超えたと思いますけど、そこに入っていました。




−排泄はどうしたんでしょう。

ポータブルトイレが中にありまして。




−そうすると、修行期間中は、その部屋から一歩も出ないということになるんですか。

そうです。




−あなたはどういう体験をしましたか。クンダリーニ以外に。

幽体離脱をして、その辺を歩き回るとか、過去世を見るとか。




−幽体離脱というのは、自分で自分でない自分をコントロールできると、そういう状況ですか。

そうです。




−具体的には、どんな感じでしたか。

抜け出して、そのまま歩いていく。




−どこへ行くんですか。

外に。




−どこに。

独房から外に行きまして、空を飛んだり、そういうことは自由にできるようになりました。




−これは、あなたにとっては非常に神秘的な体験そのものですか。

これは、すごい体験ですね。




−そのほかに、どんな経験がありますか。

あとは、体全体がどんどん軽くなるというか、エネルギーをどんどん回していますので、ずっと体が、歓喜状態というんですか、すごい気持ち良い状態になるというのと、あとは、自分の生まれる前の姿をどんどん思い出しました。




−過去世ですか。

そうです、信じられないかもしれませんけど。




(F氏の過去世について具体的に語られる。自分の殺された状況や場所が後になって本に出てきて信じたことなど)




−あなたは、それを信じたわけですか。

信じていますね。




−今でもそうですか。

今でもそうです。




−空を自分で飛んだとおっしゃいましたけれども、それは、我々のいう空ですか、それとも別世界の意味の、つまり天界とか、そういう意味の空ですか。

いや、この世界の空です。




−天界を見たとかということはないですか。

天界らしきものは見ましたけど。なぜ、らしきというかというと、私の見たものと他人お見たものは同じかどうかわかりませんので、それは、確認することは理論上難しいので。




−あなたが見た天界らしきものというのは、どんなものなんですか。

まあ、きれいな人たちがいる、きれいな世界ということしか、その程度です。




−それも、幽体離脱の経験の中でですか。

そうですね。




−グナというような、光が輝いているというようなものを見たとこはありませんか。

あります。




−そういうものも見るわけですね。

それは、一応、三グナを見た段階で、オウムではラージャヨーガの成就と言っていました。




(F氏が授けられたホーリーネームの名前など・中略)

−あなたは、こういう独房修行でいろんな神秘的な体験をしたようですけれども、その成就する前後において、麻原に対する傾倒とか、あるいは心酔とか、帰依とか、信頼とか、どの言葉が適切かわかりませんが、そういうものの心情に変わりはありましたか。

だいぶ変わりました。




−どういう風に変わりましたか。

成就する前は、やっぱり麻原のことを100%信頼しているわけじゃないんですね。それが、成就するちょっと前ですけど、成就と同時ぐらいに、100%信頼。




−それはどうしてですか。

どうしてなのか、私にもちょっと理由がわかりませんけれども、いつのまにか。




−なぜそうなったかは、今、あなたにはわかりませんか。

今は、きっと瞑想とか、ああいう修行のせいかなというふうな思いもありますけど、特に、ツァンダリーと言われるヨーガ系統は、ツァンダリーという瞑想はグルを観想しますので、あれを1日7時間ぐらいやりますので、あれをやっているうちに、なったのかもしれません。




−いずれにせよ、結果として、麻原を100%信頼し、その麻原のいうことを全部信じるという感じですか、そうですね。昔は疑うところもたくさんあったので、麻原が何かばかなことを指示すると、やっているふりをしながら、ボイコットとかをよくやりましたけど、一応、解脱してからはまあこれも何かの修行なんだろうと肯定的にとらえて行うようになりました。




−あなたとしては、本来、嫌なことであったとしても。

そうです。これは私の心を成長させてくれるものなのではないだろうかと肯定的にとらえて行うようになりました。




(中略)

−麻原は、タントラヴァジラヤーナということを解くようになりましたね。

はい。




−その内容を、あなたの理解するところにおいて、おっしゃっていただけますか。

タントラヴァジラヤーナは、グルの命令だとするならば、この世の法律等、いろんな情とか、しがらみを超えて、命令をすべて行う、それが最高の修行であると教えられました。




−そういう修行を行える、そういうのは、オウム真理教の信徒すべてがそういう教えを実行するんですか。

違います。麻原いわく、選ばれた弟子以外はこの教えは行えないと、よく言っていました。




−あなたは、タントラヴァジラヤーナの教えを実践する一人としてえらばれたんですか。

私が選ばれたというか、そうですね。




−岡﨑も選ばれたんですか。

そうです。




−特別な人間だけがこの修行をできるんだというふうに言われたこと、そのことは、その人にとって喜びでしょうか。

最高の喜びですね。よく麻原が言っていたのは、解脱は根性では普通の人間では無理であると言っていましたけど、タントラヴァジラヤーナの修行者だけはいけると、常々言っていました。




−それを実践できる自分というのは、選ばれた特別な人間という意識をもとに、行動するんでしょうか。

そうですね。他の弟子とは違うという意識は、相当あったと思います。




−そのような人たちは、この世の中で正しいのはグルのいうことだけだと、そのように信じているんでしょうか。

ええ、そういうふうに信じています。




−この教えの中で、悪行を積むもの、オウムに対抗するとか、オウムに反対的な立場をとるもの、これは悪業であると。

まあ、そういうふうに麻原が言い始めたのはちょっと後ですけれども、もともとタントラヴァジラヤーナは、グルのいうことだったら人殺しもいとわないという教えだったんで、そういうふうに言われたときは、不信感は別に出なかったですね。




−そういうオウムに対抗的な立場をとる人間は、グルが命ずるならば、殺害しても、それは許されるんだということですか。

心は、そういうふうになっていきましたね。

許されるのではなくて、グルがやれというんだから何も考えずにやりましょうという集団になっていきました、一部の者だけ。




−それは、むしろ、グルの教えを実践するということが、修行そのものですね。

そうです。




−そうすると、殺害することも、その修行者にとっては、功徳を積むとか、善行であるとか、そういう積極的な評価をするんですか。

そうです。そういう積極的な評価です。グルの教えじゃなくて、グルの意思を実践するということはくどくにつながり、自己の修行につながると考えていました。というか、教えられていましたんで。




−そのあたり、非常に分かりにくいので、もう少しうかがいたいのですが、先ほどあなたは輪廻転生ということを言われましたね。

はい。




−この殺害してもむしろ善業になるんだというのは、この輪廻転生という考え方とどこかつながっていますか。

つながっています。

まあ、グルに、グルというのかな、真理にに、麻原のいうことを、師に逆らうということは、輪廻転生においてすごい悪業積むことですから、だからここで命を絶って、輪廻転生、悪いところにいかないようにしてやるというのは、麻原の言っていることです。




−修行者は信じていたわけですね。

まあ、私たちも、見えない世界をたくさん知っていると思っていましたので、麻原は。ですから、私たちはそうは思えないけど、きっと麻原がいうんだからうそじゃないだろうと、本当かもしれないという思いで動いていました。




−そういうことだと、やっぱり麻原がいうことでもいやなことはあるでしょう。

たくさんありました。




−その場面ではどういうふうに自分を納得させるというか、いやな行動へ積極的に行動を移すというふうにするんですか。

ですから、嫌だと思っているこの自分は、まだ修行が未熟で、いやだと思っている心自体が未熟な心の表れだから、これを乗り越えるために、まあ我慢して実践しようという考えでおりました。




−マハームドラーということがありますね。

はい。




−これはどういう意味でしょうか。

マハームドラーというのは、一応クンダリーニヨーガの上の成就の段階で、すべての自己のエゴというか、自分自身をすべて悟った段階をマハームドラーと言いました。




−今の自分の嫌なこと、極端な場合で言いますと殺害するというようなこと、これをも実践するということは、マハームドラーの成就というようなことになりますか。

いえ、マハームドラーの成就ではなくて、今私がしゃべったことは、一応はマハームドラーのもう一つの意味んんですけども、マハームドラーのもう一つの意味がありまして、要するに、自分の引っかかっている、いやだと思っている観念を乗り越えさせる修行をマハームドラーと称しています。だから、グルが弟子にマハームドラーをかけるといった場合は、その弟子が一番嫌なことを実践させて、観念を崩壊させるという意味があります。ですから、殺人が普通いやなんですけども、殺人が嫌だと思っている人にはさせるということもありました。




−そのマハームドラーを実践することによって、さらに一段高い修行を達成することになるんですか。

要するに、自己の観念を崩壊させるということがメーンですから。




−自分のエゴを崩壊させる、放棄させるんですか。

いや、崩壊です。




−自我をなくすということは、結局のところ、もうグルのいうことに盲目的に従うということになりますか。

いや、もともとヨーガの教えには、真我というものがあると言われていまして、これが根本的な自分と言われておりまして、長年輪廻転生を重ねた結果、その真我の終わりにからを被ってしまったというのがヨーガの教えです。それからというのは、自我とか観念であるという意味で、それを崩壊させるためにいろんな修行法がある、最終的には心の問題になっていますので、その観念を崩壊させるために、グルがいろんな仕掛けを行なって解脱させるんだということを教わってきました。ですから、麻原がいうこと、いやなことを積極的にやるならば、修行をとことんやれると教えられました。




−麻原という人間の人物像についてうかがいたいんですけど、かなりにカリスマ性を持った人物でありますね。

はい。




−あなたは、どういうところで彼のカリスマを感じましたか。

やっぱり修行場、私たちが例えば見ている光とかエネルギーとかは、見た瞬間にこの光はこういう意味合いがあるんだよという感じで教えてくれるんですね。次の修行をするとこういう光が見えて、次の修行をするとこういう心の状態になっていくというのは全部教えてくれるんですね。その通りに修行は進めていくんですけどね。そういうところで自分よりはるかにはるかに修行は進んで、彼は自称解脱しているといっていましたので、きっと解脱しているんだろうと思うところは、すごいカリスマ性です。




−読心術といいますか、人の心を読んじゃうとか、そういうところがありますか。

そういうヨーガによって特別な超能力というものはある程度ついておりました。私が彼を知り合った86年当時はありました。




−あなた自身、彼の超能力を実際に経験したことがあるんですか。

あります。




−どういう場面ですか。

私が一時オウムを辞めようと思って、心の中で思っていただけなんですけれども、1日か2日ぐらい考えていたときに電話がありまして、おまえ、オウムを辞めようと思っているんだろうと、だれにも話していないのですけれども、麻原にはしっかりわかっていまして諭されまして、それから二日か三日はよかったんですけれども、それから、また辞めようかと思ったときに、そのときはちょうど廊下を歩いていいたんですけれども、廊下いはピンク電話が置いてあったんですけれども、ピンク電話、普通は電話はかかってくることはないんですけれども、ちょうど私がピンク電話の前にいたときに電話がかかってきました。まあ、私がピンク電話出たんですけれども、そしたら麻原が出て、おまえ、今辞めようと思っているだろうと、ずっと思っているんだと、また説教されまして、わざわざ私が通るところにいきなり電話をかけてくること自体がすごいと思いました

そういうところで、麻原は超能力があるんだなと思っていました。




−その当時の麻原は、そういう超能力はあったと、今でもあなたは思っておりますか。

思っております。ヨーガの修行をすると、だれでもつく能力なんで、これは別に麻原だけ特別というわけじゃないので。




−トリックじゃないんですか、それは。

いや、トリックじゃないのです。




−麻原がいろんなところに情報網を張っていて。

あのおろは情報網晴れるほど人間がいませんでした。全部で20名ぐらいしかいないときなんで、麻原のいうことを100%聞く人間と言ったら石井久子ぐらいのもので、あとはそんないうことをきかない人間ばかりそろってましたんで。




−そういう情報網使って情報を仕入れていて、あなたにそういうトリックをかけているわけじゃないんですね。

第一私は辞めたいなど一言もだれにも話してませんし。




−そういう麻原の超能力というのは、あなたは今でもその当時麻原が持っていたと思っているようですが、ほかの人々もそういう同種の体験をしておるんですか。

同種の体験もしてますし、そういう能力がヨーガの修行で少しずつついてきました。オウム神仙の会当時ですけれども。ですから、ああれは別い不思議なことでもなんでもなかったです。




−やはり、麻原の超能力を人々はみんな信じていたということですか。

そうです。




−麻原と弟子の関係をちょっとうかがっておきたいのですが、弟子同士はどういうつながりとか持っておりましたか。

どういうつながりというと、どういうこと。




−ちょっと具体的に質問しにくいのですが、仲間同士で。

仲間同士が仲がよかったか悪かったですか。




−そういうことも含めて。

全体的にオウム神仙の会当時は、仲は悪い人が多かったですね。




−余りそうすると、仲間同士で話し合ったり一緒に共同作業を協力しあってやろうと、そういう話にならないと。

一応は共同して作業はしますし、みんなで仲良くはしてますけれども仲良い人は仲いいんですけど、悪い人は悪い。どこの組織でもみんな同じですけれども。




−教義をお互いに自分の理解したところを話し合って、さらに自分たちでその教え、教義を深めていこうとか理解を深めていこうとか、そういうことはやらなかったのですか。

昔は、オウム神仙の会のときはよくそれはやっていましたけど。




−あなたが成就したその当時はどうでしょうか。

成就した当時は、変わっていきましたね、麻原のいうことだけをしっかり愛永というふうに変わってきました。




−それは、61年からずうっとその後つづきましたか




そうです、つづきました。




−非常にわかりにくい質問かrもしれませんが、オウムの仲での人と人との結びつきなんですけれども、弟子同士の無水付きというものと麻原とでしという間の薄日付きがありますね。

はい。




−その結びつきの強弱を言えば、どちらがどう強いですか。

やっぱり麻原と石井が一番強いですよね。石井は我々が行なったことを捻じ曲げてうその報告をしておりましたんで、岡﨑とかよく怒ってましたね。岡﨑とあとはもう辞めましたけども、Hという人がいるんですね、よく彼とか。




−弟子と麻原との関係ですが、これは横の、横というか弟子のことよりも、自分と麻原の関係、これを大事にする、そういう関係ですか。

そうです。




−一対一の関係になりますね。もともと出家してきた理由というのが自分の自己の修行のことだったんで、ですから、もともと組織として動こうとしている団体ではなかったんですえ。ですから、麻原と自分との一対一の関係を強化してきてみんな入ってきましたので。




−そうすると、弟子と弟子との間の関係はばらばらになる。

そこまでばらばらじゃないんですけど、一応一緒に集った兄弟弟子ですから。




−そういうオウムの中で行われていた教義だとそれから麻原との関係とかいうのを踏まえて、仮定の質問をして恐縮なんですけども、田口事件というものがありましたね。

ええ、新聞で知りました。




−ようするに、岡﨑他四名のものが田口さんという肩をロープで閉めて殺したという、こういう事件なんですけども、もしもあなたがその中にいたとしたら、あなたはどうしたでしょうか。

まあ、やったと思います。あそこでやりませんと絶対言えなかったと思いますね。




−それもマハームドラーであると。

ええ、そういうふうにとったと思います。




−坂本事件はご存知ですね。

はい。




−こういうケースがあなたに命じられたとしても同じでしょうか。

同じです。




−ところで、あなたは平成X年、X月X日にオウムを脱会、脱走しましたね。

はい。




−なぜですか。

麻原にもうついていけなくなりました。

突如ではないのです。一年くらいかけてずうっと考えてきました。

一年というか半年ぐらいかかって答えを出した結果です。




−その半年ぐらい前から、麻原への帰依というんですか、信頼というものは薄れてきたということですか。

そうです。




−理由はどういうことからですか。

まあ、一連の事件の発端となるようなことをやり始めて、絶対成功するわけがないことを村井と遠藤と3人でどんどんやっていくのをとめようとしたんですけど。




−一連の事件というのは、どういうことでしょうか。

今回のサリン事件のことです。




−とめようとした。

ええ、反対したのですけれども、ほかの井上とか中村昇とかがイエスマンで、みんなで彼らがやることを、素晴らしい、素晴らしいと言いながら、だれもとめなかったんですね。で、私とか、私も最初参加しておりましたけども、途中で失敗して成功するわけがない作戦だったんで、一生懸命止め始めたんですけど。




−それはどういう作戦になりますか。

サリンを作ったり生物兵器を作ったり、いろいろやっていたんですけども。ですから、それでとめたんですけど、しつこくとめると止め方が、まず村井と遠藤を教団の中枢部から外せということをいったんですね。そうしないと、もうオウムがこのままいったら消滅するのが目に見えて明らかなんで、そういうことを言いましたら、ポアすると言われまして、じゃあ彼らを辞めさせないんなら、私を辞めさせてくれと話をしましたら、もうあなたにはついていけないんで辞めさせてくれと言いましたら、生きてここから返すわけにはいかないと言いまして、それでしょうがなくなっていてもいつ殺されるかわからないんで、まあ脱走しました。




−あなたは、平成X年のX月頃ですか、ロシアへいってましたね。

はい、ヘリの免許をとるために行きました。




−そのヘリの免許は何のためにとるんですか。

サリン散布のために、最初のヘリコプターのときは、麻原の運搬と聞いていたんですけども、(中略)サリンをまくと、それででかいヘリコプターの免許を取れといわれましたから、私とBが非常に嫌がったんですけども、無理やりロシアに生かされまして、で、帰ってきて私はそのまま辞めました。




(中略)

−その殺害されるという恐怖、これは現実に起きたものとしてせまってきていたんですか。

実際、彼らはやりますので。




−具体的に、オウムからの追っ手があなたの身辺に現れたということもあったんですか。

私の目には見えませんでしたけれども。




−そういうものを感じるわけですね。

そうです。




−そのオウムからの恐怖がなくなったのはいつでしょうか。

強制捜査が始まって、主要なメンバーが次々と逮捕されましたので、これで私も助かったなと思いました。




−そうすると、94年、あるいは93年の後半かもしれませんけども、その頃の麻原とそれ以前の麻原とではあなたの心の中で人物像は全く違いますか。

そうですね、今考えると超能力を持ってカリスマ性を発揮できたのは、選挙前、90年前ですか、で、90年あとは、シャクティーパットのやりすぎで体の調子が悪いんだろうと私は思ってましたね。93年以降になると、完全に頭が狂っているというのがわかりました。それでとめようと思ったんですけれども、ばかな側近たちのおかげで、とまらなかったんで。




−そのばかな側近の筆頭は村井であると。

村井です。村井、遠藤、新見、井上、中村昇、このあたりです。




−そういう取り巻きのようなんですか、それは。

そうです。取り巻きで。




−ようするに、麻原の太鼓持ちみたいなものをやっていると。

そうです。




−そういうものがますますおかしくしていったと、こういう感じですか。

そうです。




−そういう状態で、あなたは麻原への帰依が切れたということですか。

そうです。




(中略)

−(検事)(幽体離脱について)それはあれですか、今から考えれば、別に麻原に教えてもらわなくたってできたことじゃないかというふうには今は思っているんですか。

今は思ってます。今は本当にヨーガの経典に書いてある程度のことなんですよ。




−(弁護士)あなたは、坂本事件が起こったときには、それがオウムのしわざというようなことを感じませんでしたか。

感じませんでした。




−全くオウムがやったんじゃないと思ってましたか。

ええ、もしあれをやってしまったのがオウムだとしたら、ばかなだれかだと思いました。あれをやることによって、オウムには何一つメリットがないと思いますね。




−そのころは、岡﨑さんも全く一緒にはいなかったんでしたね、その事件のころには。

そうです。岡﨑は私のように、位は同じクンダリニーヨーガですけれども、岡﨑さんのほうが麻原さんといる時間が長いですし、仕事面では上司なので、私はそのとき選挙やっていましたので、自分の積極で選挙活動をするのがせいいっぱいで、他人のことまで、ましてや坂本弁護士は私はやっていないと思っていました。




(中略)

−何で(岡﨑が)脱走したかというのは。

その理由がわからなかったです。岡﨑さんほどの人が、オウムでは本当にトップクラスですから。それで一応オウムにいるのは解脱とか悟りを目指しているんであって、オウムを辞めるということは解脱とか悟りをやめるということになりますね。で、すべてを捨てて、社会的なものを捨ててオウムにきていましたので、彼はもう30ぐらいだったものですから、結構やり直しをするのもきついと思うんで、何で辞めたのか、その原因は。




−何かそれについて、教団で中の何で岡﨑辞めたんだというような話を聞いたことないですか。

ないです。




−選挙を前やっていたということをおっしゃいましたけども、選挙に出ることは、あなたとしてはどんなふうに思っていましたか。いわゆるばかばかしいことをやり始めたという家事ではないですね、まだ。

最初は麻原が出たいというんですから、勝てる見込みがあるんだろうと、私は麻原の予知能力というのは信じてやりました、そのとき。選挙やるときに票決をとったみたいなんですけれども、私はそのときにXにいまして賛成も反対もできなかったんですね。急に呼び戻されて選挙手伝えと言われました。手伝えと言われたからには、せいいっぱいやったんですけども。




−そのときは当選するだろうというふうに思っていたわけですか。

麻原が当選するといっている以上、きっと当選するだろうと思いましたけれども、サンデー毎日とかの一連の事件で、もうダメなのは肌で感じますよね。




−そうすると、その辺からちょっと麻原の予知能力も疑問が生じたというようなところですかね。

そのときは、シャクティーパットやったあとだったんで、調子が悪いんだろうと、私たち弟子の間では大目めに見てるというか、麻原の予言が外れるのは多めに見ていたきらいがあります。




(中略)

−(裁判官)(F氏が脱走したときの)その心理的プロセスというか。

私も教団のトップクラスにいたんですけども、いっていることが、やろうとしていることが日本を乗っ取りたいと、私は日本の王様になりたいと言い始めたんですけど、どう考えてもこの日本社会で武力で王様になるのはちょっと無理だと思ったんですけども、会議で何回かロシアから日本に帰ってきて出たんですけれども、それはそれは稚拙な作戦をたてるんですね。それをみんなが素晴らしい、素晴らしいとおだてるんですね。このままいったら本当にヘリコプターでサリンをまかなければならないと、ヘリコプターでサリンをまいた場合、例えば東京都内にサリンをまいちゃうと、ミグ17は4トンぐらい詰めますので、一万人とか二万人とか死んじゃいますよね、そのあと自衛隊に皆殺しにされますよね。もう目に見えていることわかっていましたし、何の罪もない人を一万人も二万人も殺したくはなかったということです。




−ただ最終解脱をしている麻原が、どう説明していたかというのはわかりませんけれども、仮にそれがポアだとすれば、それは輪廻転生の中では救済されるわけですよね。

私はそのときはそうは思っておりませんでした。そのときの麻原は、例えば私の心を読むこともできなくなっていましたので、例えば私が辞めたいといったときに、おまえが辞めたいのは性欲だと、結婚させてやるから残れと言われたんです。私が本当に辞めたかったのは、こういうことをやめてほしかったんですよね。ああ、こいつは、もう私の心さえ読むことができないんだと、このままついていってももう先が見えたなと。




−そうすると、もう解脱者だということはとても信じられなくなったと。

もうこの人は、解脱というのは完璧じゃない以上、完璧じゃない以上というのは、ヨーガの経典での解脱は現世、この俗世に触れると落ちると言われています。麻原の姿を見てて、もう落ちた人としか私には見えませんでしたね。




−丹沢セミナーの当時は、教義のようなものはなかったというふうにさっきおっしゃいましたけども。

詳しい系統だった教義はなかったんですけども、ヨーガ的なちょっとした話はありました。




−教義みたいなものを説きはじめたのはいつごろからですか。

12月ぐらいですか、しっかりした教義を説き始めたのは。私はさっきの話題になっていたのは6月の丹沢のセミナーなんですけれども、8月、9月の丹沢のセミナーから、ほんの少し仏教的な四無量心だとか、そういう話を説き始めてはいますけども、本格的になってきたのは12月ぐらいからです。




−タントラヴァジラヤーナの教義を説き始めたのはいつごろですか。

タントラヴァジラヤーナはだいぶくだって、選挙始まるちょっとぐらい前でしょうか。




−こういうことを言い出したときに、何かおかしいなとか、そういうことは思いませんでしたか。

疑念は少しは持っていました。なぜかというと、今までの教義ががらっと変わっちゃいますので、何をいっているんだろうという意識はありましたけど、でも今までの経験した神秘的な体験がありまして、我々だけに説いていたんで、まあ、また特別な方法があるんだろうと考え直しました。




−そうすると、神秘的な体験をしたということが、やはり麻原の力というか、そういうのを裏付けて示させる方向に働いたと。

私はX年ほどオウムに在籍していたんですけれども、やっぱり93年、4年は本当に細菌兵器を作ってたりというのをやらされたんですけど、それを支えていたのはあの神秘体験は全て麻原の力によって体験できたということです。




(中略)

−(裁判官)その平成5、6年当時は。

はい。麻原が本当に朝起きて、思いつきでおかしなことを言うのですよ。そしたら側近たちが、じゃあやりましょうといった感じで動くんですけども、それが余りにひどくて、あとはちょっとおかしいというようなことをいったら、すぐに密告されまして、私がロシアから帰ってきたら、上にあげる箱、箱というのは麻原にあげる箱というものができていまして、みんなで密告をしなさいと奨励しておりました。教団で。私とか林泰男とか、平田、今逃げている信とかは、オウムがロシアから武器だけじゃなくて、密告制度まで輸入したんだと、もう終わりだねという話をしたんですよね。だから私たちが求めていた、理想社会のためだったら私たち命を捨てようと考えていたんですが、これが、こいつらが本当に日本の天下をとったら、ソビエトなんか問題ならんほどの密告社会が出来上がって、私たちの理想社会ではないんですよね。武力でやったってついてくるわけないんですよ。もう完全に狂っているとしか私たちには判断できなくなりました。







以上。

2018年9月24日月曜日

宮前吼宇作品とは、水墨画のボカシ技法を筆ペンに『氣』を乗せての特殊描法だった。

多分数年前に来た手紙。宮前一明さんご本人が、どうやってスプレーやマスキングを使わずに、東京拘置所の中で水墨画を描いていたのかが語られている手紙です。


2018年9月16日日曜日

管理人のほしいものリスト公開

<管理人より>

私は今まで宮前さんや他の死刑囚の方の支援を完全なボランティアでやってきました。


宮前さんが途中でお金をくださいましたが、そのお金は差し入れや7/26に名古屋拘置所へ行く際の交通費に使わせていただきました。そんなに大金ではありません。


取材も、ありがたいことにお菓子やお酒を奢ってもらうことはたまにありますけども、ギャラはいただいておりません。


今後、末長くこのサイトや活動を続けたり、何かアクションを起こすために、金銭的なご支援をいただけたらありがたいなと思うに至りました。もし金銭的なご支援がありましたら、絵のスキャン代、展示会の企画、ボランティアの方にお会いする際の交通費や飲食代などに使わせていただけたらと思っておりました。


しかし、グーグルブロガーのアフィリ申請を行って一週間待っても申請が下りません。



で流石に通帳を晒したり本名を晒したりもできず、新しく口座を開くのも時間が足りないと思い、とりあえず私のほしいものリスト公開いたしました。

http://amzn.asia/7ac7xeX

お互い匿名で物を送っていただける仕組みになっております。


ご支援賜われましたら幸いです。


管理人 HN山田茜 https://twitter.com/akaneyamada0322
※amazonギフト券の場合、Emailはakaneyamada0322@gmail.comかkoumiyamae0404@gmail.comでお願いいたします。

東京地裁一審第11回公判午前 証人尋問 証人:Jさん(昔からの知人)

宮前一明さんの遺品に、公判資料のほんの一部がのこされています。

東京拘置所と名古屋拘置所では総量規制(房内で持っていていい私物の量)が異なり、名古屋の方が圧倒的に少なく、公判資料は一般人に宅下げできませんので、移送されてからは公判資料の大半を処分せざるをえませんでした。

遺っていたものは本当に大切で重要だとご本人が思われているものと思います。

以下のものが遺されていました。

・判決文

・自首調書

・精神鑑定を行った医師の証人尋問

・3人の知人の証人尋問(昔からの知人、オウム古参信者2名)




これからは、重要な部分を中心に少しずつ上げれる部分は上げていこうと思います。個人情報はもちろん伏せます。イニシャルも全く関係ないアルファベットにしております。




<東京地裁一審第11回公判午前 証人尋問>

証人:Jさん(宮前一明さんの養父母の知人で子供の頃からの知り合い)




(前略)

−(弁護人)一明さんというのは、Jさんから見ると、どんな性格の少年というふうに記憶がありますか。

まず、きちょうめんすぎるくらいきちょうめんで、そしてまじめなのは間違いなかったんですが、中学校のころから、お金がなくて学校に入れない、上の学校に行かれないというときに、奨学資金というのがありまして、それを借りて、もっとも私が保証人になりましたけれども、ちょっと貧困なもので、親戚のものも保証人にならないというのが耳に入りましたもので、だったら私がなってあげましょうということで、私立だったら月謝なども少し高いもので、是非県立高校に入りたいということで、まあ見事、行ってくれました。




−一明さん自身は、やっぱり勉強は、自分である程度のところまでいきたいという希望は持っておったんでしょうね。

そうですね。




−生活保護家庭ですから、おっしゃるようにお金がなかったんでしょうけれども、自分では、なにかアルバイトをして収入を得ていたということもあるんでしょうか。

あります。新聞配達をやったり、そして冬休み、夏休みには、必ずドカタと言いますかね、今の土木作業員のような仕事をやりまして、学資を稼いでおりました。




−それは、まだ中学生のころですか。

ええ、中学のときも、高校のときもですね、ずうっとです。




−そんな小さいのに、ドカタみたいなことはやれるんですか。

子供でもできる、ちょっと、材料の運搬とか、手元なんかのような仕事、やったのを僕は見ていますから。穴掘りとか。まあ、今は機械がありますけれども、あの当時はまだ。




−さっきまじめとおっしゃいましたけども、学校にはきちっとしっかり、休まずに通っていたということでしたね。

はい、間違いありません。




−何かけんかをするとか、悪さをするとか、そんなことはありませんでしたか。

もう、一切ないですね。




−一明さんは、高校を出てその後就職していますけれども、大学に進学したかったというようなことは聞いておられますか。

ええ、何度も、四、五回聞いたことがあります。




−それでも、結局大学に行けなかった理由については、どういうことが原因だというふうに聞きましたか。

結局、生活保護のような生活をしていますから、早く社会に出て、大学に行くよりもお金のほうが先だというのが第一だったと思います。




−ちょっとお尋ねするのを忘れましたが、お母さんも働いてはおられなかったんですか。

ええ、そのようですね。ちょっと病弱で、働けるような状態ではなかったと思います。




−学校を卒業した後、どんな仕事をしていたかということは、Jさんは知っていらっしゃいますか。

何か小さな建設会社のようなところに、ちょっといたように記憶あります。




−そこはほんのわずかな期間だったと思いますけれども、その後のことなんかは、聞いておられますか。

あとは、出版会社のような会社で、営業をやっていました。そして、製薬会社に入社しまして、成績が良くて、すぐ、主任だったか係長だったかわかりませんが、一年くらいで昇級したのを覚えています。




−就職したあとも、Jさんとのお付き合いと言いましょうか、そういうものはあったんでしょうか。

ええ、時々山口県のほうに来たときには、必ずよってくれました。




−その時はどんな話を一明さんとするんですか。

そのときは、今、一生懸命やっているから、これからも頑張るということでした。




−何か、お父さんのことをよろしくとか、そんなようなことを言っていたようなことはあったんでしょうか。

それはもう、来るたびに言っていました。




−一明さんは、両親に対する、大きくなってからで結構なんですけれども、そんなふうな感情を持っておったというふうに感じていますか。

幼少のころに理由もなく叩かれたりしたことは、少しくらい私にぽつぽつと話したことはありますけれども、それを話す割りには、お金を持っていったり、なにかいるものはないかとか、近所を通ると必ずよっていました。




−そうすると、いわゆる親孝行のほうだというふうに伺ってよろしいんでしょうあ。

はい、間違いないです。




(中略)

−一明さん、オウム真理教に入信するわけですけれども、このオウムに入信をしたということは、Jさんは全くご存知なかったわけですね。

ええ、オウム出版とかいって、出版会社と思っていたんです、私は。




(中略)

−ところが、平成二年二月頃ですか、突然、一明さんがJさんのところを訪ねてきたということがありましたね。

はい。




−それは、奥さんのSさんも一緒にきたんですか。

はい、一緒です。




(中略)

−相談の内容というのは?

まず、アパートを紹介してくれということで、(アパート詳細)へ紹介しました。




−どうして帰って来たかというようなことについて、理由は言っていなかったですか。

ええ、そのときは言っていなかったです。




−Jさんにそういうことを頼んでいるときの様子、何か変わったことはありましたか。

変わったことというよりも、何かにおびえているというのか、追われているというのか。まあ、何かがあるのだと私は直感しました。




(中略)

−具体的に、何かそう感じられるような行動とか、そういう面で何かそういう具体的なことはありましたか。

まず、二月といってもあまり寒くないときでも、襟を立てて、サングラスのようなものを掛けまして、そして、何て言ったらいいか、人目をはばかるような感じは受けました。




(中略)

−家庭教師とか塾は、その後非常に順調にいっていたようですね。そういうふうにお感じになっていらっしゃいましたね。

はい。




−そんなふうに順調にいった理由について、Jさんとしては、どんな点が気がつかれたところでございましたか。

これは、塾の生徒の親が非常に気に入りまして。60人か70人いたと思いますが、ほとんどすべての親が気に入りまして。岡﨑君を。なぜかという理由は、ある母親に聞いてみたんですが、すごくきちょうめんで厳しいと

それで、子供が性格が変わったと。要するに、よくなったということです。それで、子供の方も、怒られてもあそこはいいと。ほかの塾に変わる考えはないというようなのをいろいろ聞きましたもので、私は、ああ、よかったなと、そのときは思っていました。




(中略)

−数学といっても、別に一明さんはそういう教師の免許を持っているとかいうわけじゃないでしょうから、教える内容というのは、どうやって勉強したというか、それについて何か知っていることはありますか。

記憶によりますと、高校時代から割合数学が得意だったようです、普通よりも。それも知っているんですけれども。そして、現代の塾に合わせるためには、自分も勉強しなければならないというんで、夜も寝ずに、ずっと電気がつきっぱなしになっていたことも度々ありました。それで、何をやっているんだと聞きますと、勉強しなきゃ、だんだんレベルが上がって行くもんで、奥も生徒と一緒に勉強しなければならないと言って、やっていました。




(中略)

−一明さんの趣味なんですけれども、趣味としてはどんなものがありましたか。

ある程度の読書と、ゴルフですね。




−ゴルフは、随分好きだったようですね。

はい。




(中略)

−ゴルフ以外、例えば酒とか、あるいは旅行をするとか、そんなことはなかったんでしょうね。

ちょっと記憶にないですが。




−酒もほとんど飲まない。

酒は、もう、たばこも。私がたばこを吸うと、こうやって嫌がるくらいですから。




−犬を飼っていたようですね。

はい。




−動物を飼うのは好きだったんですかね。

ええ、そうです。




−それから、ちょっと話が変わりますけれども、先ほど、最初の頃は非常におびえていた様子があったというふうにおっしゃいましたね。

はい。




−その後ですけれども、そうやって塾が順調にいっておったころですけども、そのころはそういう不安の感じた様子とか、それはどんなふうになりましたか。

徐々に、だんだん落ち着いてきまして、ああ、また中学、高校時代の一明君にまた戻ったなというような印象を受けました。




−何かちょっと、不自然というか、心配事があるような様子とかというのは、感じられませんでしたか。

ありました。

落ち込んでおるというか、話しかけても即返事ができなくて、はっ、ということも再々ありました。




−そういう心配事の理由については、しばらくたってJさんもお話は聞いたんでしょうか。

はい、ある程度は聞きました。




−そうすると、オウムにずっと入信していたときのこととか、そんな話も少しずつ話をするようになったということでしょうか。

はい。




−今回起訴されている、坂本弁護士さん一家の事件ですね、そのことにつては、彼が何かかかわっているという話は、Jさんにしたということはあるんでしょうか。

ええ、あります。




−それは、いつごろその話を聞きましたか。

はっきりわからないですけれどもね。(中略)

初めから、この子がそんなことはないというのを、うそと信じて僕は聞いていますもので。




−最初は、Jさんには、自分はどんなことをやっているという話をしたんですか。

だんだん、私も、テレビでやるもんで、一応興味がありますもんで、いろいろ聞いたんですけれども、そしたら、週刊誌に書いてあるように、見張りをしていただけとか、運転をしていたんだ、僕は関係ないんだというようなことを言っていました。




−それで、そんな話を聞いて、どんなふうにそれを。

そのときも、また私をわざと驚かすのかなというような感じのほうが先でしたね。




−本当に彼がやっているという感じは受けなかったんですか。

ええ、だれかほかのものがやったことを聞いて、それを自分で言っているんじゃないかというような感じを受けましたね、最初のうちは。とても信じられないもんですから。言ったって、そんなことのできる子じゃないというのも・・・わかっていましたから。




−一明さんの性格について、何か昔と変わっているとか、あるいは、何か性格上で変化が感じられたようなことはありますか。

ありますね。




−どんなことが変わって来たというふうに思いますか。

製薬会社に勤めているときとか、中学時代、高校時代のことも入れてですが、ちょっと、元の一明じゃないなという印象を受けました。




−それは、どんな点でそんなふうに思われたんですか。

あの当時よりも大人になったというか、やり手になったというか、何かたまに思ったことがあるんです。こいつ、生意気になったなと。でも、いつもじゃないですから。思ったことはありました。




−悪いことをやるとか、そういうことにあまり抵抗がないとか、そんな性格が悪くなったという感じではないんですね。

ええ、そうじゃないんです。




−ただ、大人になって、いろいろな物事がよくわかるということですか。

はい、そうですね。神経質になったというか、ゆったりさが少しなくなったというような感じがしました。まあ、それは徐々に戻りましたけれども。




−そうすると、塾の経営も順調にいって、あなたたちとゴルフなんかをするといったときは、もう昔の彼と変わらないというようなことですか。

また、全くすなおな。すぐ戻りましたもので、ああ、これが本当の一明君だなと思いました。




−そういう彼が、まさかそんな大それた事件をやっているということは、あなたとしては信じられなかったというお気持ちですね。

はい。まだ去年くらいまでは、だれかの身代わりで、お金なんかもらってわざと名乗っているのじゃないかというのを、うちの家内と、まあこれかばかみたいな話ですけれども、ちょっと相談したことあるんですよ、ごはんを食べながら。いや、そんなことないわな、そんな漫画みたいなことを言ったら笑われるなと言っていたんですけれども。




−その去年というと、もう彼が警察の方に行ってからあとのことですか。

ええ、あとのことです。




−そういうときでも、あなたとしては信じられないというお気持ちで、証人になったということですか。

はい。それで、今、なるべくうちでは、もう一明君の話はしないようにしています。家内がもう、かわいそうだといって泣くのが見られないもんですから。




(中略)

−Jさんのお答えですと、とても今でも信じられないというような話なんですけれども、本当に今、一明さん、こういう事件をしたということとすれあ、あなたとしては何が原因でなってしまったというふうに、今思っていらっしゃいますか。

昔の軍隊と一緒で、もう命令一貫で、いやでもやらなきゃならない。私のいとこも軍隊にいて、いろいろ話を聞いていますけれども、同じようなものだなと言って、友達と話したこともありますけれども、暴力団でもそうかもしれませんが、一明君の意思は、もうゼロに近いと思いますね。環境と、何かに取り憑かれた何か、そんな気がします。




−少なくともあなたの知る限りでは、そんなことをする素因というか、性格であるというふうには、とても思えない。

はい、とんでもないです。




嘆願書二通示す。

−これは、Jさんがお書きになったんですね。

はい。




(中略)

−これは、佐伯xxさんが作成した名義の嘆願書を示しますが、この嘆願書は養父のxxさんが書いたものですか。

はいそうです。




−xxさんは字が書けないということにもかかわらず、一応ここに文章が書かれてありますが、これはどうして書かれたんでしょうか。

漢字は私がほかの用紙に書いて、こうですよ、裁判の裁はこうですよと教えてあげて、そのとおりに書きました。




−それをなぞって書いたものですね。

はい。




−従って字が少し、見た感じ変なところがあるわけですね。

はい。




−しかしこれは、xxさんが自分の意思に基づいて書いたというのに間違いないですね。

はい、私、字が書けないから、思っていることも言えないし、どう書いたらええやろかと言いましたもので、ならそういうふうに書きなさいと、頭、けがしているからというから、ならそれも書きなさいと言ったら、そういうふうなことを申しましたもので素直に書きました。




(中略)

−被告人が中学二年のときに、家庭状況なんですが、どのような家にすんでいたかはご記憶ですか。

まあ一口に言えば雨が漏るようなうちでした。




−養父母がおりましたね、それで被告人と3人暮らしと、一緒に暮らしていたんでしょうか、同じ屋根の下に。

はい。




−被告人だけ隣にいたというご記憶はないのですか。

部屋が二つあれば隣かもしれませんが、もともとは狭いうちでしたから。四畳半が2つくらい、もう今崩れてありませんけども、その当時僕は古いなと思ったような家ですから。




(中略)

−さきほど、平成二年二月に戻って来て、なにか追われているようなことは気づいたとのことですが、そういう状況の中でも、被告人の家を探してあげたりしたのは、何か被告人をかくまってあげようとか、自分が守ってやろうとかいう気持ちもあったんですか。

まあ一応夫婦で来たもんで、借金取りじゃないと思ったんですよ、何か暴力団のようなもの、自分勝手に考えたんですが、そういう感じを受けましたもんで、じゃとりあえず名前をZという名前にして、ここにすんでおきなさいというわけで、例の(アパート名)にお願いしたんです。




(中略)

−彼の話をすると、奥さんがかわいそうだと言ってなくということをおっしゃいましたけれども、かわいそうだというのはどういう趣旨でおっしゃっているんですか。

さっきも話したように、まだ本人が犯人じゃないと思っておるんです。そんな感じでものを言うんですよ。




−あなたとしてはもうご存知ですね。

はい。私はもう今はもう、とにかく、泣くんです。話を出すと泣くんです。かわいそうだと言って。




−被告人がかわいそうだと。

はい。




−あなたとしては、こういう事件の犯人だということで、こういう裁判になっていることはご存知なわけですよね。

はい。




−オウムというものは、世間からいろいろ批判もされたというのはご存知ですよね。わざわざこの証人に遠くから出てこられた、今のあなたのお気持ちはどうなんですか。

複雑なんですけど、とにかくお願いできるなら裁判長様にお願いして、なるべく少ない刑を賜っていただきたいと思います。




−あなたは被告人を間近に見たというのは、久しぶりのことなんですね。

はい。




−どんな気持ちがしましたか。

まず元気でよかったというのと、・・・さっき涙が出そうになりました。




−社会的にはいろいろ言われている事件であるけれども、その犯人であるけれども、あなた個人としては、そういう強い気持ちがあるということですか。

はい、もうやったことはいいことじゃないですけれども、本当に本人の意思ではないというのがありありと分かるもので。




(中略)

−(検察官)養子だからもっと暖かい親の愛情に飢えているとか、そういう感じはしませんでしたか。

ないですね、むしろ前の親ですね、養子に出した親のほうを逆に憎んでいました。




−なんと言っておりましたか。

まだ一歳にもならないのに、なんで私を養子に出したんだろうかと、もう信じられない、連絡もないし、普通なら電話の一本でもあってもいんだけれどもということは言っておりました。




−形の上で一人っ子になるわけですね。一人っ子だから大家族というのか兄弟とか、そんなのにあこがれているとか、そういうふうな感じは見受けられたりしたことはありますか。

いや、それはないです。一人だから寂しがるようなこともなかったです。




−それから先ほど家が貧困だったという話が出たんですけれども、貧困だったことが被告人の性格に影響を及ぼしているとかいう感じはありますか。

いいえ、私なりの考えですが、逆によかったんじゃないかというような印象を受けます。苦学して一生懸命勉強して、親に頼らず自分のお金で高校を出て。自分でほとんど生活しておりましたから。




(中略)

−特に(養父母と)仲が悪いとかそういうことはなかったんですね。

はい、ございません。




−麻原彰晃という人、知っておりますね。

はい。




−かつて麻原のことを、何か言っていたようなことをお聞きになったことはありますか。

あれは人間じゃない、あれはもう動物以下だということはよく聞きました。




(後略)






以上。