2018年12月9日日曜日

問い掛け-10

<気絶>


 入学式の朝。グレーのブレザーと半ズボン、ハイソックスを聞き、白いハンカチをポケッ トにそっと仕舞って緊張した。どれもが新品でナフタリンの香りが嬉しくて堪らない。

 小学校の校門には、両脇に大きな桜の木がまるで祝うかのように待っていた。

 和服姿の養母と一緒に、校庭でクラス別の写真に収まった特別な日。担任の先生が女先生だったこと、そして自分の席を覚えるのが精一杯の私は慌ただしく入学式を終えて帰宅した。

 その日の午後、まさか、気絶する程の大怪我に遇うとは誰が予測しただろうか。

 普段着に着替えて外に飛び出した私は一目散に駆け出し、同級生のR君と一つ年下のM君を呼び出して遊んでいた。すると、隣り区の子供が二人。M君に詰め寄って文句を言い出すので、彼を庇うつもりで私は反論した。その二人は小学三年と五年生の兄弟と後で判った。

まさか、この二人が暴力に出るだろうとの予測もなく、私は、兄を相手に口をとがらし拙ない言葉で口論を続けていた。すると突然、誰かに背後から頭を押され、私はつんのめるよう にして倒れ込み、条件反射の如く、両手を前に出した。しかし、その両手は、雑草に隠れた側溝の溝へと吸い込まれ、顔面に側溝の白いコンクリート片が迫ってくる・・・・。




 気が付いたとき、私は布団の上に寝ていた。鼻がズキンと疼いて痛い。 どうして、ここに今、寝ているのか状況が掴めず「カアちゃん。」と養母を呼んだら、 隣りの部屋から「今起きたかね。」と言って襖を開けて養母が、事の成り行きを話して呉れた。

 昨日の午後、M君が泣きながら駆け込んで来ると、「佐伯君が鼻から血を流して倒れちゃったよぉ。」との報らせを聞き、直ぐ現場に掛けつけた養母は、気絶した私の顔を見て、鼻梁の真ん中がバックリと切れていたので愕いたという。

 その事故のとき、R君は恐くなって家に帰ってしまい, 加害者の兄弟は走って逃げたため、M君だけが泣きながら伝へに来たという内容だった。 血を流していたが、医者に行く程の怪我ではないと判断したのか、既に夕方で病院が閉まっていたので締めたのか、家庭治療で済ませた 結果、私の鼻は長い間、曲がったまま、傷痕もハッキリ残ってしまった。 驚いたのは養父だった。

「もし眼じゃったら、失明しちょるぞ、本当に。」と言って激昂した。


 数日後、養父と私は、その兄弟の家へ赴き、彼らと父親を前にして怪我の経緯と謝罪の言葉を求めた。


 兄弟は泣きながら謝り父親も息子たちを横目で叱っていた。それでも養父は、

「もし女の子だったら、どう責任をとるのかね。」

と言って、続けざまに痰火を切る。犯人が弟の方だと判った。子供のケンカとは申せ、私の真後ろから不意に暴力に出たこと、そして逃げ去った行為が養父には気に食わないらしい。  子供のケンカに大人が介入するのは可笑しいのだが、怪我とその内容が悪すぎた。

 目の前の二人を見て、私は何故か兄弟を恨む気になれなかった。二人が、父親に叱られながら、 正座して両拳を強く握りしめ泣いている姿を前にするから同情しているのとは少し違う。

 多分それは、初めて気絶したショックと、ケンカとも呼べないアクシデントで大怪我を被り、加えて、入学式の、それも当日の出来事であり、これから夢を抱き、希望一杯に登校すべく小学校の先輩の二人から受けた暴力に大きな失望を感じていたからだ。これも或る、人間不信のひとつとなって心に刻み込まれたのではなかろうか。

 帰り際、養父は、「もうあの子たちとは、遊んだらつまらんぞ。」と言って、私を睨んだ。 やはり、無性に悲しくて堪らない。以前のような、渇愛の悲しみとは少し違う痛みが胸を突く。 子供の自分には、上手く説明が出来ないだけに、ただ、ただ、幸いなァーと思う寂塞感が募るばかりだった。




 近所の友達もそうだが、あの兄弟も同じように、そして養父とも、心がちっとも繋がらない。不満も、ケンカもない、静かで楽しい一日を生きて行ければ一番良いのになアー。 皆んなが皆んなどこか違うなァー。いつも余所を向いてるなァ。どうにかならないのかなァー。と、小さな頭で思い悩み、そして切なくなった。

常識からして、ナイフを持ち出して復讐する養父の考えは常軌を逸した行為だ。狂気の沙汰としか思えない。

 養父は、その過ちを、未だに気付していない。しかし当時の養父は、余所者だからといって。 他人に責められる必要はない。意地を見せろ、態度で示せ、と私に教えたつもりだったのだ。さも勲章を見せびらかすかのように ・・・・。でも私は、その歪んだ養父の心性と劣等感からくる可笑しな価値観が透けて見えたように思う・・・・ 。

 少なくとも本能的に「父ちゃんは、怒ると何をするか分らない。 気狂いになる。そんな人なのだ。」 と、脳裏に深く刻み込まれてしまった。




 隣りに坐っていた養母は呆れ顔で、

「もう、ええじゃない。あの子供たちも一明に謝ったんじゃから一明も、もう、あっちの方へ遊びに行くことはないんじゃから・・・・ 」

と、書父に宥めるように優しくいって収めた。

 確か、 この頃でした。養父から韓番で直接手や背中に焼処 (ヤイト)を据えられたのは・・・・。その時の印象は今も鮮烈に残っている。しかも、笑いながら火のついた線香を 私の肌に当てるのだ・・・・。そして間違いなく涎を垂らしていた。(今振り返えってみても、一体、何が嬉しいのか。何故その時だけ養父はニヤニヤするのか、よく判からない。)  勿論、私の悪魔やロ答えを治すための折艦もあったと思う 義母は私に、

「早く謝りなさい。」

とせかした。 しかし、私は頑として聞かない。なぜなら、私の言い分を訊いて呉れないからだ。養父は、思い込みが強く、烈火の如く怒り出し、拳骨が先に飛んできた。

 感情のまま慣る姿と、虐待に近い暴力と脅し文句に反揆したかった。養父の、

「よし、分かった 父ちゃんにも考えがあるからのぉ。 みちょれよ。」

と、子供相手に威嚇し睨み付ける情けない姿にも・・・・。

 この過った性癖と態度に対し、ときどき養母は愚痴をこぼした。

 その文句を聴き逃さない私は、家(うち)は、他の家庭とは違うな、と徐々に気付き始めたのも、この頃だった。




 言う迄もなく、家の中は以前より暗くなり、養母と私は、まるで小動物のように身体を強張らせ、養父の顔色を窺いながら一挙手一投足にビクビク脅えながら暮らす毎日が始まった。




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続く。

問い掛け-9

<空海とロ寄せ>


 「死」を意識し出した私は、シロやタマたちは、いつ死ぬのだろうかと、養母に問い詰めたら、人より短命だと教えられ、彼らに対する接し方が一変。というより、二匹の行動を注意深く、そして気遣うようになったと思う。

 当時、テレビ番組の「ウルトラQ」を観てから、未知への恐怖心に一層拍車がかかり、 ときどき、養母と、魂について話していた。 でも本当のところはよく分からなかった。

あまりにも観念的で難し過ぎた。

 或る日養母から、何処其処にも必ず色々な神様が居るもんじゃぞ、と教えられ、氏神様や 道祖神のこと、そして、般若経について少し、何かを聞かされた。それでも、私には難しくてよく分からず殆んど忘れてしまった。その話の中で、佐伯の姓とは、実は、弘法大師・空海様の姓(本名)と同じやから、偉い苗字なのだと教えられ、四国生まれの空海は、 佐旧真魚という姓名で、生まれたとき、その産声がお軽に聴こえると言って、或る坊主 (高僧)が手を合わせたとのこと。多分、高野山の真言宗や四国のお運端さん、そして空海の偉業についても語っていたと思う。しかし、私はすっかり忘れており、また、その佐伯姓を 意識することもなく、当時は、平仮名を覚えること、自分で名前を書く練習に夢中だった。

 しかし、その後、引っ越しを重ねるなか、空海が建てたという寺の隣りに移り住んだ折、奇妙な繋がりと心境の変化を来すものがあり、空海を意識したことがある。


 日曜の或る朝、義父母たけで、どこかに出掛けるからと言われ、一人で留守番をし、夕方、帰宅した義父母は、何かヒソヒソと話し出し、すると突然、まるで喧嘩のような大声

を出して、「なら、引っ越しするしかないじゃろがア」

「毎晩、こうやって、首を締められるんじゃからのう。なぜ、とうちゃんだけなのかよう分からんのお。」

「この家は、昔、首を吊って死んだ男が居たんじゃ。その男の霊じゃから。」

「別に、あたいの所為じゃないけんねえ、もう、知らんよ。」

と、養父母は、引っ越しするかどうすべきかについて話していたのだ。

  幼い頭で、二人の話の辻褄を合わせて整理すると斯うだった。

 養父が毎夜、男の霊に首を締められるので取り憑かれたのではないかと養母に相識した結果、丹沢の麓に在る口寄せを訪ね、相談したところ、地縛霊だから、引っ越す方が良いと告げられ帰宅し、いまどうすべきかと二人が揉めていたのだ。

 その後、養父は別の口寄せに生き、そこの住職から、

「あなたには、或る地蔵様が付いていますから、その○○地蔵を祀りなさい。」 と、告げられ、養父は、俄然元気を取り戻し、別のお経も唱えるようになり、一時、その霊の話しは止んだ。

 何故、養父にだけ霊が義き、養母や私には憑かず、まして何も見えないのか、それが不思議だった。否、もしかすると養母は既に見ていた。敢えて無視し、もしくは、養母だけの結界を張っていたのかも知れない。

 なぜなら、過去、多くの神秘体験を重ねていた不思議な過去を持つ養母だから・・・・。


<近所の噂>


 養父母の性格、趣味、嗜好がどんなものなのか、そして、二人の歳の差を意識するようになったのは学校へ上がる前だと記憶している。

 周りの家庭と比較しだしたのもこの頃であり、異和感を覚え、戸惑ったこともある。

 養父が文盲ゆえ、読み書きの全ては養母に任されていたこと、そして何事であれ、養母に意見を求めるやりとりは、「なら、これで、ええんじゃのお、よし、判った。そうするからのお。」 と言って判断を仰ぎ、養母の知識や経験に頼っていた。


 養父は小柄で既に髪の毛は後退しており、年齢より老けて見られたと思う。外に出ると生真面目で愛想が良く、寡黙な人だと周りから思われていたようだが、本人にしてみれば、実は文盲ゆえに、話すとたんに教養が無いのを見抜かれるのを恐れて、只、黙っていたに過ぎないと思う。

 直情気質もあってか、思いを巧く言葉にし、相手に伝えることが出来ない人だった。誰でも一言二言話せば、この人は損なタイプと気付く筈だ。家庭でしか暴力を振るえない質で、特に自己の弱点に触れられると、突然怒り出し、顔を真っ赤にし、子供にまで、手を出す内弁慶タイプの気性。心の弱い可哀想な養父。何事も理性より感情が優位に立つ人だった。

 養父の趣味は、パチンコ、浪曲鑑賞、長(山)芋 (自然薯)掘りだった。日曜日、私が家に居るときは一緒に聴け、と付き合わされ、正座をして浪曲を聴かされたものだった。

 お陰様で、広沢虎造、天中軒雲月、二葉百合子、ほか十数名の浪曲師と名曲、そして、 歌謡浪曲の三波春夫と村田英雄の名曲・名台詞は、いまもしっかり覚えている。

 春や秋になると養父は、シロをお伴に連れ、近くの山へ出掛けては、自然薯を掘って持ち帰るのが好きだった。時々、私や筆母も付いてくこともあった。ドングロス一杯に秋の幸や自然薯などを詰め込んで開宅したとき、義母の笑顔を見るのがましかった。もちろん、子供の私が出来ることは、キノコやしめじ等を獲ることしか出来ない。いつも歩くの が遅いと叱られ、シロとジャレ合って遊んでばかりいた。

 劣等感の強い養父だが、酒もタバコも風俗にも関心を示すことなく、純真無垢で真面目な樵が服を着て歩いているような男だった。

 今、思うに、山の生態や草木に詳しい養父から、もっと学んでおけばよかったと悔やむことが度々ある。

 この頃、何故か、近所の噂では、養母は、実は養父の実母ではないか、との変な噂が広 がった。

 郷里の妻と離婚した養父が、子供(私)を引き取り、母(養母)と息子(養父)の二人 で育てているのだ、と、全く根拠の無い流言飛語が流れた。

 そんな訳で、養母は、この頃から余り外出しなくなり、私のお遣い物が以前より増え、当然家の中は暗くなり、陰麗な雰囲気になった。訳の判らぬ私でも周囲の視線や噂で、養父母の歳の差を意識せざるを得ない、複雑な心境に置かれることとなった。

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続く。

問い掛け-8

<新しい家族>

 或る日、仏間に鶴の紋の入った仏壇が据え置かれ、驚く間もなく、その日から朝晩の御題目が始まり、義父母と共に配も分からず手を合わせることになった。

 多分、これが生まれて初めて宗教に触れる儀式のひとつではなかろうか。

 言う迄もなく、華父が創価学会員に折伏され、入信し仏壇を購入したのだろう。

 五歳の頃と、そして小学四年のとき、養母と一緒に 富士の大石寺へ参拝したことがあった。

 この頃から大人の出入りが多くなり、学会員の方たち家に来ることもあり、養父の収入も増えたためなのか、白黒テレビやタンス等、家具がひとつとつ並びだした。

 いつの日か、養父が真っ白な子犬を連れて戻って来た。シバ犬に似た足の短い雄犬だっ た。 こは「シロ」と命名し、又、 どういう訳か、その日、虎毛の雄猫が居付き、 仕方なく養母は、その猫を「タマ」と名付け可愛がることになった。いつの間にか佐伯家に扶養家族が増え、賑やかになり、環境が一変したのは私だった。

 外に渇愛を求めるかのような行動は、その日からピタッと止まり、依然興味を向け出した興味がシロとタマに注がれたからだ。

 朝から晩まで彼らと遊ぶのが日課となった。しかし、当然のようにシロはコマのような成犬でなく子犬なので直ぐに疲れて寝てしまい、一方、猫のタマにも限界はある。手加減しない子供にいつまでも遊ばれるほど二匹は忍耐強くなく、直ぐ逃げてしまう。

 そのうち、二匹と私は、一定の距離を置いて接する,、不思購な不文律が出来上がり、お互いに氣が乗ったときだけ遊ぶ、そんな真摯な協定が出来上がっていた。

 結局、彼らとの関係は、兄弟からライバルになり下がり、家族の中で一番低い位置に在るのは私だった。なぜなら、養父が一番に可愛がっていたのは犬のシロであり、次にタマ、そして私は三番目であったと。少なくとも当時の私の目にはそう映って見えていた。

 養母だけが、比の可笑しな協定を微笑ましく眺めていたのではないだろうか。






<死とは無に帰することなのか >


 小学校に上がる前、養母から読み書きを教わり、また周りに在る事象すべてが文字になることや物事の仕組みや世の中の単純なシステムについて判かる範囲で教えて貰った。しかし、なぜか既に左利きの癖が付いており、矯正が難しいため、結局文字は右手、絵は左手で書くことで妥協した。

 或る朝、庭にモグラが死んでいるのを見つけた私は、養母に、「なぜ、寝たまま動かないのかなァ。」と、問いかけると,「このモグラさんはね、もう死んじょるんやね。死んじょるということは、 もう動かんのじゃよ。もう、魂が抜けちょるから、このまま放っておけば、腐って骨になってのお、後は土に還るんじゃよ。」と言われ、無言のまま一緒に穴を掘って埋め、その間際に養母は、 「一明よ。一明も死ぬんじゃぞ。年をとってのお、おじいさんになって身体がだんだん動かなくなり、いつの日か、一明も、このモグラと同じようになるんじゃよ。かあちゃんもとうちゃんも同じじゃよ。人も皆、他の動物たちも大きな木も花も皆んな同じように死んで、そして生まれ変わるんじゃよ」 と。

 私は黙って聞いていた。というより意味がよく分からないまま動転してしまった。

 養母から「死」や「魂」、そして「生まれ変わり」について聞かされたのはこの時が初めてであり、それ以前の記憶がない。

 そもそもが、死の意味さえよく分からぬ私に、モグラの死骸を前にして、自分だけでなく養父母さえも死ぬのだと知らされたとき、強い衝撃を受け、言葉が口から付して出なかった。

 もちろん、それまでに小さな虫を叩くなど、殺したりして、動かなくなることは経験で 判っていた。しかしまさか、自分と両親、まして虫以外の大きな小動物さえも、死んでしまうものだとは、考えられないと言う思いで聞いていたのだ。


 養母は、死や魂、転生の理念についても語ってしたと思う。また、朝晩の読経の意味合いに触れ、死生観と仏教、そして人の心についても、何か難しいことを私にも分かるように話していたのではなかろうか。

 しかし、その時の私は、「死」とは、今の自分が消えてしまい無くなるものだと思い込んだためか、頭の中が凍てついてしまい、思いを巡らすには至れなかった。義母の声は耳を掠めるばかりで、死んだモグラのビジョンがいつまでも瞼に焼きついて離れなかった。

 顔色の変わっている私を見て、養母は、「死んでも魂は転生するんじゃ。」 と言って、朝晩しっかり拝むことや、それで救われるんじゃと、確かにそれに近い説明をしていたのではないかと思うが、でも、魂や転生についての内容は忘れてしまい。 死ぬと無に帰するような感覚しか残っていなかった。残念なことに、それだけしか・・・・。


 或る日の午後。同い年のR君の家へ遊びに往く途中、田んぼの畦道を歩いているとき、 突然「死」の恐怖に襲われ、立ち竦んでしまった。

 自分が死んで無くなるということは、もしかして、今、考えているこの僕自身の 思いや心(意識)まで、同時に消えてしまうのだろうかと。

 当時六歳の私が、難しい言葉を並べ立てて、論理的に考えることは出来ない。しかし、 その時の「死」の恐れと自我の消滅への虚無感を言葉にするとなれば、その通りだった。

 僕自身が消えて無くなる恐怖。今まで自分を意識し、イメージしてきた、この姿と気持ちの根源そのものが全て消えて無くなるなんて信じられない。無に帰することへの恐怖。

 まさか、そんな筈はない。そんなことになったら、もう大変じゃないか

と、死の先を考えられる筈もなく、真暗闇の中で突然足をすくわれて、底無し沼に引きずられるような戦慄を憶えた。そんな恐ろしい虚無の隙間に落とされ、凍てついたまま・・・・。

 自我の消滅が死であり、死が無に帰するものであることを恐怖の同義語として思い込んでしまった。そんな一日であったことは間違いない。

 翻ってみると、死を意識し、精神世界やオカルトに惹かれるひとつの原因がこれなのかも知れない。




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続く。

問い掛け-7

<手弁当>


 越した先は、窪地に置き捨てられたような薬草き屋根の一軒家。

 縁側も土間も仏間もある三間の母屋造りで、広い庭が今も印象に残っている。

 それでも、台風や大雨に遇うと決まって床下浸水に至る低地で、周囲の高台は殆んどが 瓦葺き、もしくはトタン屋根の新築ばかりが建ち並び、まるでここだけが時代に取り残されたような、そんな異空間を醸し出す古い家だった。



 朝、眼が醒めると、こころ弾む愉快な通園が待っているのだ、と思いきや。

 天井の模様がいつもと違っていると気付き,ハッとする私。 昨日までの現実とは違い、既に新たな一日が始まるのだと悟った私は再び潟愛の独り歩きを始めた。

 殆んどー日中、外で遊んでいるため、相変わらず昼を過ぎても帰ろうとしない。でも、 大人しく家で過ごしたこともある。それは雨の降ったとき。

 既にその頃から絵を描くのが大好きで、クレヨンでアニメマンガの色塗りや, 模写をし て、ああでもないこうでもないとブツブツ言っては独り楽しく紙面を彩っていた時だ。



 或る日、迷子と勘違いされ、子供のできない夫婦に親しくされ、そして数日後、唐突にも、その夫婦から

「是非、一明ちゃんをうちの養子に。」

と、改めて懇願されたとき、養母の顔は、怒り心頭に発してしまった。

 養母は、その夫婦を無視し、私の手を掴み、引き摺るようにして、その場を立ち去った。 それからの私は、何日も外に出して貰えず、凝っと我慢の日々が続いた。ところが、養母の留守中に飛び出すこともあり、その都度、養父に叱られ、焼処(やいと)の折檻を受け、あちこちが水膨れになり、今も痣として返っている。

 結局、養母は、きかん坊の私に折れてしまい、手弁当を持たせて外に出す案を考えたの だ。 毎日、園児服の姿に弁当とクレヨンの入ったバッグを肩に掛け、近所やそこかしこの農家の縁側に座り、隠居然とした故老のおじいさんやおばあさんたちと、拙ない言葉を交わして、弁当をひろげていた。又、神社の境内やバスの停留所のベンチに座って、独り楽しくバクバ クと美味しそうに食べていた記憶も浮かんで来た。

 母の面影を追い続けるのか、いつかきっと探し出せるのだと健気にも信じているのだろうか、それとも、その別離の空白を置すための独り歩きなのか・・・・。

 数奇な運命とは申せ、本当に風変わりで可笑しな私(子供)だと思う。

 このような私でも、自由奔放に放って置いて呉れたのは養母だ。やはり、達観した、醒めた人なのかも知れない。

 先の夫婦のご主人は、タンカーの船長だった。子供(私)の将来を考えると養子に遣ることの方が幸せに成れる筈だとの流言もあった。

 私が新聞配達をやり出して、中学三年になる前、 母がポツリと呟いたことがあった。 あの夫婦にー明をあずけていたら、一明をこんなにまで苦労させんでもよかったのにと。

 実はもう一組。 私が小学生の頃、養子にと、懇願される人がいた。




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続く。

問い掛け-6

<独り歩き>



 一九六三年。養父は職安へ行き面接の結果、日産の自動車部品工場に転職することが決 まった。

 そこは神奈川県厚木市。引っ越し先は、町外れの片田舎。

 タクシーから降りて、地図を頼りに転居先の農家を探して歩く親子三人。

 山と竹林に囲まれた基葺き農家が点在する真冬の薄暮。

 小さな牧場も見えるのどかな風景。養母の手をわし掴みにし砂利道を不安定な足取りでセカセカと歩く私。徐々に視界が薄暗くなり、寒さに身を縮こませ手をポケットに入れた。勾配の脇道に入ると、右手に大きなコンクリート升の貯水溝が目に飛び込んできた。

 思わず足がすくみ立ち止まった。躰が堅くなる。水面に反射する裸電球の外灯がキラキラと輝き、波校で更に大きくなる。初めて見る不思議な光景に眼を奪われた。

宇部の山奥では見たことのない外灯。そして、なによりも、吸い込まれるような庭の見えない貯水溝が怖くてたまらない。それからの私は貯水溝の前を横切るとき、必ず離れて歩く習慣が身に付き、又、風呂やプールまで大嫌いになってしまった。(因みに水を克服できたのは小学四年の夏だった。)




 転居先は、知人に紹介された農家の納屋の二階だった。

 環境が一変し、隣り近所に住宅が在るのも幸いしたのか、私の日々は、まるで冒険のような有様で、人見知りもせず、環境の変化に気おくれすることもなく、何んにでも興味を抱いた。

 どういう訳か、家で凝っとしておれない性分と、養母に思われてしまった私は、養母の制止を振り切り、毎日、家を飛び出す始末。

 数日前、愛犬のコマを宇部に置いて来てからの私は胸の裡で、なぜ、どうしての問い掛けと共に 寂しさと混乱の中で、コマを探そうとしたのかも知れない。

 言葉にならない愛別離苦の切なさと不満。三歳にして三度目の引っ越しとなる環境の一変がそうさせたのだろうか。 もしかすると、これが最初の問い掛けだったのか、否、突き詰めると母への渇愛から既に問い掛けは始まっていたのだ。

 私を見守るように俯瞰する養母はそのことに気付いていて当然だった。

 一歩、家を飛び出すと昼過ぎまで帰って来ない私。往く先々の家で歓待を受け、当然のように昼食までもてなされることもあり、「一体、この子はどこの家の子だろうね。」と、周りの大人たちが心配するころになって、やっと家に帰るのを思い出すのんきな子。

 否、本心のところでは、ここにも母とコマはいなかったと幼い胸の裡で諦めるしかない、長い 一日だったのかも知れない。

遅くまで足を延ばし、幾度か迷子になり、養母を困らせたことも(※破れていて読み取れず)独り歩きは止まらなかった。

 私の独り歩きが、儚く徒労の幻想で終わろうとも、外界との触れ合いに因り、徐々に心の襞が癒されていくのだった。なぜなら、どの家にも歓待され、愛情一杯にもてなされる。 そんな空間と雰囲気に浸っていられたから。

 当時の大人は、どこの子も一緒に育て、分け隔てなく愛情を持って迎へ容れ一体になれ た。心が豊かな人が多く、穢れのない幼児を見て、だれもが遊んでくれた。

 無垢ゆえに、自然と触れ合う無私の愛。自他の区別なく、こころ和むまま癒されていた かった。誰もが備え持つ無償の愛を感応できた共有の笑顔。倖せな空間と豊かなこころが、

当時は、そこここにあったのだ。そして誰も拒むことがなかった。




 越して来てからの遊び相手がコマから大家の娘、近所の子供たち、そして不特定多数の大人たちへと様変わりし、行動範囲も拡がり、外に意識が向けられる分、世間の社会通念を、自然に習得できたのではないだろうか。独り歩きが、そんな最適な情操教育に成り得た成果だと私は勝手に思い込んでいる。そういえば独り歩きが始まる前、自立心を養う為なのか、唯一の日課 であった、朝一番のお遣いを憶い出した。

 毎朝、自分の飲むミルクを近くの牧場まで買いに往くことだった。

 小さな鍋を両手に持ち、百メートル足らずの道をこぼさぬよう持ち帰る。只、それだけのことだが、三歳児の私にとって、それは長い道程だった。帰りが遅いといっては、養父母が 二階の窓から頭を出して、「一明よーい。早よう帰らんかねーい。」

と、叫ばれることも再三だった。



 牧場の牛を遠くから眺めたり、鍋を足下に置いて山羊の尻をつついて逃げ帰り、養母か ら、「鋼はどうしたんじゃね。」と言われ、再び取りに戻る始末。

 近所の犬や猫と遊んだり、ときには道端で用を足すなどして、朝食が待っているのをすっ かり忘れてしまう、そんなのんきでお茶目な子供だった。余談だが、この頃ラジオや有線か ら流れる歌を、いつ覚えたのかワンフレーズのみ、まるで毀れたレコード盤のように繰り返し歌っていた。

 養父母の前で小さな台に乗り、ワンフレーズ歌し終わるとペコンと頭を下げ、二人に拍手をせがんだ。そして満足すると台から降り、華母の肩をトントンと叩き、もう一回歌うから聴いてくれというゼスチャーを示した。 養父母は、ならばと改まって、再び私の歌を聴いてくれる。

 ほんの数十秒だった。そして拍手をされ満足し、再び養母の肩を叩きに来る。

 この繰り返しを少なくとも五回は付き合わされたんじゃぞ、と或る日、義母は遠くを眺めつつ、三日月眼の笑顔で、「あの頃の一明は本当に可愛いかったけどねえ。」

と季節替えのとき、タンスの前で、その頃の幼児服を手に取って追憶を楽しんでいた養母の顔が浮かんで来る。

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続く。

2018年12月8日土曜日

問い掛け-5

<愛犬コマ>


 移り住む場所は、市道を挟む向かいに義姉夫婦が住んでいた辺部な山奥だった。

 山の清水を飲み水とし、小川での洗濯、夜はランプで明かりを灯す生活が始まった。




 思い返せば、既にこの頃から養父母以外に渇愛を求める可笑しな行動癖があった。

 姉夫婦の飼う二匹の犬のうち、一匹が、私に懐くようになり、そのキッカケで、夜泣きが治り、養母は喜んだという。そういえば傍らに茶色の大型犬がまるで私の守護神のよう に寄り添って坐っていたのを想い鳶色の眼。吠えることなく、いつも静かに私の動作を見つめている姿。

 あいかわらず「カックン」と、その犬にも私は叫んでいた。それ以上、別の言葉が出ないのか、覚えようとしないのか、ただただ、繰り返すだけとのことだった。もしかすると養母以上に、その犬に渇愛を求めていたのかも知れない。



 小学生の頃、養母から、その犬の名は『コマ』だと聞かされた。




 私のお守りをよく熟して呉れた、とても賢い犬だと言う。又、砂遊びの最中、私がコマの頭上からバラバラと砂を落として遊んでいたこともあった・・・・。するとコマはその 砂を避けようともせず、まともに受け、私の為すがままだったと。当然、砂は眼に入り、 眼を開けていられない。ところがコマは、両眼を真っ赤にし、凝っと坐り続けていたという。

 このエピソードを知ったとき「ウソだよ」と強く否定し、コマをいじめたような記憶がないから、と否定した。

 しかし、養母だけでなく、養父も口を揃えて、

「コマはのお、賢くて優しい我慢強い犬じゃったのぉ。眼を真っ赤に腫らして、ずっと坐っちょったからのお。一明が幼いと知っとるからっと耐えていたんじゃぞ。」

と言われ、にらみ返された。

 養母も、「コマのように我慢強い人が昔は多かったもんじゃがねえ。」

と、まるで旧知の恩人を偲ぶかのようにコマに思いを絶せ呟いた。

 犬の好きな僕が何故に、と何度も否定し、波が滋れた。

 それから当分の間、その頃の情景を想い出すたびに、胸が詰まり、喉が締めつ 思いを何度したことか。

 いまにして思うと、当時の私は、コマとの触れ合いによって渇愛が癒され、心は静謐に満たされていたのではないだろうか。むしろコマの方が幼児の内面から香気のように滲み出る歓喜の匂いに即応していたのではなかろうか。

 盲導犬や介護犬が主人の心に感応し、献身的に振るまうことがむしろ使命であるかのように。いうまでもなく、当時の私は三歳。善悪の観念もない無邪気そのものの行ないだから・・・・。




 養父が、ときどき私を自転車の荷台に乗せていたのを思い出した。走っている最中、落 ちたこともあれば足を挟んで死ぬほど泣いたこともあった。その都度、養父は顔を真っ赤にして叱り飛ばすので、痛みを癒す慰めにはならず、むしろ養父の顔が恐ろしくて泣いていた。多分、この頃から養父の直情気質を肌で感じとっていたのではないだろうか。

 こんなとき救われたのはコマの存在だ。私の感情を直ちに察し、機敏に反応したのは養父でなくコマだった。

 いつも、どんなときでも、必ず駆け付け、寄り添って呉れた。

 ときどき、養父と一緒に町へ出掛けるとき、必ずコマが走って付いて来た。まるで母親が我が子を見送るかのように、いつも同じ場所まで来て、ピタッと止まって坐っていた。

 そこからずっと小さくなるまで眺めていてくれたのだ。

  山肌の真砂の茶色とコマが重なり合い、見分けがつかなくなるまで何度も何度も振り返った。

 コマは、人の心を備えた不思議な犬だった。そして、周りに貴重な体験を与えて呉れた 愛犬であり母の化身だった。



 一方、思い返すと、何事にも寛容で自然体の美母の存在がこのような原体験を導いて呉れたのではないかと思う。

 なぜなら、例の砂遊びの最中、養母は遠くから見守りつつも、最後まで成すがままを貫き、決して介入して来なかったからだ。

 もし、コマ以外の犬なら、私は咬まれていて当然。否、むしろ犬の両眼に砂を掛ける行為自体、普通の親なら直ちに止めさせていた筈だ。

しかし、養母は、そのときの空間を、コマと私の全てを、その先までも見切っていたのだ、間違いなく、確かに・・・・。

今も、そう信じている。



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続く。

問い掛け-6

<養子同志>


 不思議なことに、私も父母も共に養子だった。この、不遇をかこつような絆は、やはり見えない糸で繋がっているとしか思えない。

 それ故、親元から話され、他人に育てられた賞父母が、他人の私をどう育て、見守って来たのか、一方、それに応へる私は、渇愛のトラウマに翻弄されながらも、その運命をどう乗り越えたのか、否、果たして来たのだろうか、その是非を問うのは愚問かも知れない。 少なくとも、この三人がひとつ屋根の下で、どんな家庭を築き生きて来たのか、その軌跡を辿ることによって、私自身の本性に近付けるのではないだろうか。

 そんな人格形成の原体験に焦点を当てなければ、物事の本質を炙り出すのは、困難で炙ないだろうか。

 そうすると、微かに残る六十年代に思いを馳せ、記憶の底に沈んでしまった遠い過去馳自分を一人ひとり呼び起こすことで、今に至った運命の結び目を一本一本縁り寄せて見ようかと思う。

 そのような訳で、当分の間、寄り道をさせて戴くことになりますが、どうかあの二歳の

男の子の追体験だと思い、温かくお見守り頂くよう、お付き合いをお願いします。




 佐伯家に入籍する直前。

 養母が私の身体の異状に気付き、父にその説明を糺した処、取る医師が、四歳まで脱腸の手術は無理だと教えられ、仕方なく、そのまま放っているのだと聞かされ、「そんなバカな・・・・」と言って共に驚いた。

 陰嚢(ふぐり)が挙大にまで膨らみ痛くて歩きにくい筈なのに、私は平気で歩いていたという。

 見ていて痛々しく感じる養父母たちは、その説を断固否定し、早速、知人を頼って手術の出来る先生を探し出し、なんと二歳半のとき、無事手術に成功したのだ。




 養父母の私への愛情は実父母のそれよりも遥かに深く勝っていたのがよく分かる。

 その頃の写真を見せられ、事情を知るにつけ、こんなにも膨らむものかと驚き、ひとり赤面したものだ。




 退院してから、間もなく不思議なことがあった。

 遊びに夢中になり、工事中の穴に三輪車ごと転落したときのことだった。姿の見えない 私を心配した養母が私を発見すると、なんと穴の中で無傷のままニコニコと笑って立っていた。これを見た養母は、「近くに祀られたばかりの若いお狐様だ。この稲荷様に間違いない。 ー明と一緒に遊んでおられたから助けて下さったんじゃな。」

と、小学生の頃、真剣な表情で聞かされた覚えがある。

 又、養母は若い時分、津和野和荷の或る会に所属して多くの神秘体験を重ねるうち、御神体のお狐様が夢の中で御拝謁できたと、その情景を熱心に話して呉れた。

「大きな尻尾が何本も分かれてのお、白色じゃったね。もう大分、年寄りのお狐様じゃっ たね。」

と。

 佐伯家に移り住む当初から、夜泣きを続ける私は五十歳になろうかという養母に昼夜を問わず困らせていたそうだった。

 娘を育てた経験のある世母は、如才なく家事や育児を熟なす一方、養父は私をどう扱かってよいか分からずあたふたとし、夜泣きの度に癇癪を起こしたという。養母は、養父の睡眠を妨げぬ よう私を背負い、夜空を仰ぎ見、子守り唄を歌いながら家の周りを小一時間も歩き、私を優しく宥めていた。

 その後、突然養父が肺炎で入院し、退院と同時に炭坑夫を辞め、姉(養父の姉)の住む宇部市の山奥に引っ越すことになった。

 越した先は、ところどころに穴のある藁葺き屋根の一軒家で、廃墟そのものだった。







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続く。