2018年6月18日月曜日

問い掛け③

前:問い掛け②

<養父母の生い立ち>

 養父(佐伯T)は昭和一桁生まれの五人姉兄の末っ子で腹違いだった。長女とは20歳も年が離れていたようで、義祖母は義父を産んだ後、肥立ちが悪く、直ぐに他界された。
 その後、姉夫婦や親類の家々を渡り歩くようにして育てられ、結果五人もの養母を「お母さん」と呼び、渇愛に喘ぐ不憫な幼少年期を過ごして来た。
 どの親類も、一度として愛情いっぱいに迎へられたこともなく、寂しさと貧困に喘ぐ日々だった。
 加えて、戦時中はもちろん一所不住に追われ、そのドサクサのなか、終始、家事手伝いに扱き使われた挙句、学校まで休まされ、戦禍の中、早朝から蜆を売りあるく日々だったという。
 当然、小学校の義務教育も途中までしか受けられず、生きるだけが精一杯の少年(養父)は終戦を迎へたとき、13歳の文盲に成ってしまっていたのだ。
 或る真冬の朝、アカギレした私の手を見て、養父が、
「とうちゃんものぉ、一明ぐらいの頃、手をこすりこすり蜆を売り歩いたことが、あったんじゃぞ。」
と切々と語る、その悲惨な体験を知ったとき、私は、ひどく胸にこたえ驚いたものだった。

 戦後、養父は、浪曲師を志したという。しかし音感や美声はともかく、結局、文盲では話にならなかった。
 そして炭坑夫となり27歳で養母Nと結婚。その二年後、私が養子として迎へられた。

 養母(佐伯N)は養父より18歳年上の大正初期の生まれ。
 幼い頃、幼女としてた人に育てられ女学校を卒業し、そして結婚。娘をひとり儲け、成人まで立派に育て、その娘が結婚したのを機に夫と離婚。
 その後、養父と再婚し、二年後、私を迎へ入れる最大の切っ掛けを醸し出したことは前述の通り。
 養母は、過去を余り語らず、どこか達観した処があった。宗教遍歴もあり、知識も豊富だった。たまに娘が孫を連れ、佐伯家に泊まることもあった。
 養母との関係をどう説明したらよいのか、上手く説明できるか自信がないが、思い返すと養母を実母と信じた筈なのに、潜在意識では常に違和感を覚え、しかも霧の中で未知なるものにお互いが牽制し合っているので、肉親の域を越えた少し不思議な距離を保って接していたのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
 客観的に説明するならば、どちらかと云へば、幼少の頃から母という存在よりも、どこか友達という関係に近く、腹蔵無く、なんでも話し合える姉弟という感じでしかもよく喧嘩もした。もちろん、いつも口論ばかりだった。
 私が甘えても丸ごと受け容れることはなく、どこか一歩退いて遠くから見守る育て方に徹していたように思えた。
 養父とは親子ほど年の離れた姐さん女房ゆえか、養父には逆らえず、理不尽なことでも凝っと耐えなければならぬ養母と私は、ある意味、社会音痴な養父の下で被害者意識を共有していたと思う。
 養母の存在は私の運命を転換させた以上に、心豊かな人生を与えて呉れたと思う。男の子ゆえ、亦、一人っ子であるからこそ独立心旺盛に育てて呉れたのではないだろうか。
 ただし、渇愛を求める此の偏った依存心までは、どういう訳か、拭え切れなかったようだった。
 養子に出されてからの私は、これといった人見知りもせず、いつも、どこでも、愛に満たされない、渇愛を癒したい、自分だけでなく皆が心和やかに成れるそんな特性を活かして儚くも母の面影を追い続けていた。
 このような無垢で愚かな心性がその後の人生を翻弄したのは言うまでもない。養母は、もしかしたら、そんな息子(私)の性向を知りつつ敢えて放っていたのかもしれない。否、そう思えることが確かにあるからだ。

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続く。

1 件のコメント:

  1. オウム事件は、麻原の洗脳と言われてる中で、実際に死刑囚となった方々皆さんが、最終的には、自分が悪かったといってます。先日死刑執行された中川死刑囚も最後の言葉でも、誰も恨みません。自分がやったことです。と最後の場で潔さをみせていました。集団の中の閉塞された環境でおきる支配関係、いじめは、日本の社会においてよく目にする光景です。

    その中から殺人を犯していく背景は、到底理解できませんが、時を経て今になり反省する死刑囚をみると同情する余地は、あると思います。
    死刑判決は、打倒かもしれませんが、恩赦によっての減刑が起こってほしい。そう願います。
    この世でやり残したことは、ありませんと言う岡崎さんに、もう一度人生をやりなおしてもらいたい。
    養母に愛されて育った岡崎さんからは、皮肉な部分がひとかけらもみあたらないように見受けられます。
    生きて社会に貢献してほしいい。

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