2018年6月13日水曜日

問い掛け-2

※「佐伯」は「さいき」と読みます。

※本人以外の個人名は伏せ字にしました。

※原文ママ



前: 問い掛け①



<出生から里子に>




 1960年(昭和35年)、10月8日、山口県の片田舎で生まれた私は一歳と九ヶ月の頃、養子に出され、中学三年まで実父母のことは何も知らされずに育てられた。




 母は、昭和17年の生まれで四人姉兄の末っ子だった。

 16歳のとき29歳の父と一緒になり17歳で長男を出産。ところが兄は未熟児のため乳を飲む力もなく喉を通ることもなく18日目の朝、あっけなくこの世を去って逝ってしまった。あまりに短い兄の生涯でした。

 それから九ヶ月後の朝。

 同じく早産で未熟児の私が生まれた。

 しかし、五週間後、両親は離婚してしまった。ところが上司の中立で元に戻り、また別居したりと不安定ながらも育児だけはどうにか続けていたという。

 そして数ヶ月後。

 一歳に満たない私の目の前で突如、母は蒸発してしまい、置き去りにされたときの母の後ろ姿の記憶はなかった。

 もちろん、父も残された側のひとりだった。

 一歳にも満たない乳児の心に、果たしてどれほどのトラウマが残されたのか、そんな息子のいたいけな反応を父はこう語っている。

「一明は、あの日から誰にも懐かんようになった。すぐ逃げる。もう誰も信用せんのじゃろうのお。」

 と、憐れむように周りに漏らしていた。

 母の膝。息と匂い。肌の温もりが消えてから、初めて渇愛の痛みを態度で示したのがそれだった。しかし、こんな小さな乳児に母を探すことはできない。言葉の認識もうすいこの時期に渇愛を癒す方法はなかった。父でさえ、もう諦めていた。

 それから十ヶ月間、父は私を育てる一方、再婚相手を探していたという。

 そして或る日、育児に疲れた父は、母の姉を頼りに私を養子にと相談を持ち掛けた。

「お姉さんが一明を育ててくれたなら、それが一番ええんじゃがのお。」

 半ば、祈るようにして懇願する父の顔を見て、姉は困り果てた。

 ところが二児の母である姉は、不運にも、夫の怪我で収入が途絶え、逆境に喘ぐ日々だった。

 姉は、二人も3人も一緒だと、一瞬迷った・・・・ところが三度の食事もままならず、しかも子供たちにおやつも買えない厳しい現実がそれを拒んでしまったと言うのだ。

 むしろ妹の身勝手な行動を恨みつつ、やりきれない気持ちを抑え、父にはやんわりと頭を下げ、断る以外になかったと、姉(伯母)は手紙の中で、「あの日の悔しさ、切なさは今も心に残ってます。」と、告白している。

 そして最後の言葉として、なんの穢れもない小さな私に向かって、

「一明ちゃん。ゴメンナサイね、お姉さんを許してちょうだいね、さようなら。」

 と、ひとこと囁いて、別れる決心をしたのだった。




 それ以降、父とは疎遠になり、外でばったり出逢っても、決まって姉から会釈を返していたのに無視されていたと言う。

 姉はときどき冷たい視線に胸を突かれ、非情の鎖の重さを背中で感じたと、そう漏らしている。そして、父とは二度と言葉を交わす場面はなかった






 父が伯母に養子を持ち掛けた理由は、再建相手の条件が私を里子に出すことだと、後に判った。

 ところで、その頃の私は、母をときどき想い出すためか、「カックン(かあさんの意味)」という言葉とは思えない叫び声を誰彼かまわず、まるで訴へるように呼び掛けていた。




 私が一歳と九ヶ月のとき、里子の噂を耳にした佐伯夫妻が社宅に訪れたのは、昭和37年の真夏で、この年は、池田内閣が高度経済成長を打ち出して三年目。岩戸景気の翌年だった。




 そこは山口県の西部、坑山の街、美祢市。大理石や石炭石を産出し、無煙炭(カーバイトや練炭の原料)の大炭田として栄えたことのある町。




 父も、伯母さんの夫も、そして佐伯(養父)も共に炭坑夫として数キロ以内の職場で働いていた。




 小学生の頃、養父(佐伯)から当時の写真を見せてもらったことがある。

 その風景は、ダイナマイトとサイレンの音が木霊するなか、石炭の粉塵が空を覆うたびに、誰もが手ぬぐいを口に当て、風に流されるのを待たず、先を急ぐ人々の姿が自然に映える大通り。坑山に囲まれた地形ゆえ、夏は地の底から蒸し立てられるような暑さだったと述懐していたのを覚えている。




 佐伯(養父)は、10人足らずの飯場に属していた。

 佐伯は、或る日、一日の疲れを癒す大衆浴場で、小さな幼児を里子に出す人がいると聞かされ、早速、知り合いを頼り、村長の世話で掛け合って戴くことになった。

 一方、父は、その申し出を快諾し、

「一度、息子に逢ってやって下さい。」

と返辞を伝へた。しかし、父は、私が他人に懐くかどうかが不安でならなかった。

 その日、佐伯夫妻は、父の住む社宅の前で立ち止まり、佐伯(養父)は、

「男の子じゃが、どんな子かのぉ。大丈夫じゃろか。」

と妻のNに問い掛けた。

「まだ二歳になっちょらん、ちゅう事やからね。直ぐに慣れるいねぇ。」

と、N(養母)は自信を持って応えた。(実の娘を育てた経験を持つNには不安がない。それよりなによりも、男の子を育てられるかと思うと、それが嬉しくて堪らなかったのだ)




 父は、佐伯夫妻を快く迎え入れ、「唐突にあいにくですが、今、一明は午

睡中だもんで寝顔しか見られませんが」と告げ、昨夜から悩んでいたせいか不安げな顔でこう続けた。

「佐伯さん。うちの子を貰ってくれるのはええんじゃがねぇ・・・・実は、うちの子はねぇ、誰にも懐こうとせんのです。すぐ逃げるんじゃね。だから、もし、佐伯さんに懐いてくれたら、本当にええんじゃがねぇ。」

 のっけから否定的な説明に佐伯夫妻は顔を見合わせた。

 その訳を説明すべく父は、一年前に起きた母の失踪と育児の苦労を切々と切り出した。




 場の空気が一変する。




 運命を左右する呪詛のような父の低い声に反応したのだろうか・・・・。

 すると部屋の隅でスヤスヤと寝ていた私は、突然目を覚まし上半身をぴょこんと起こした。いつもと異なる特別な雰囲気を察したのか、先に身体が反応したのだろうか。

 寝惚け眼の目をこすると父以外に、知らない大人の顔が目に映った。

 初めて見る顔に驚き、佐伯夫妻を凝っと見据えた。

 バツの悪い父は複雑な心境になり、話を止めた。

 タイミングよく、N(養母)が私に向かって呼び掛けた。

「かずあきちゃん、こんにちは。もう起きたんかねぇ。初めまして。

いまね、お父さんとね、いろいろとお話しをしたのよ、どうだろうねぇ、かずあきちゃん。おばさんのところに来てみんかねぇ。どうするぅ・・・・。

 じゃあ、はい。こっちへおいで・・・・。」

 と、Nは膝をポンと叩いて両手を拡げて待っている。




 一歳と九ヶ月の私に大人の話す言葉は理解できない。

しかし、この異様な雰囲気と、いつものように父から発せられる憐憫の情が伝わってこない。それは本能である親子の絆、愛情の波動だ。




 六つの目が私の動作に固唾を飲む。




「・・・・ ・・・・。」




 少しの間が空く。

 首を少しひねって何か考えごとでもするかのように、天井を仰ぎ見、空(くう)を見詰めた。

 皆の眼に映ったその仕草は、精一杯考えようとする幼児の愛くるしい茶目っ気に見えた。

 しかし、事情を知るものから見ると、その様は、余りにも切なく、気の毒でならない。

 Nは来ると信じている。

 一方、父は冷めていた。

 どうせ他所を向いて逃げるか、無視するのが落じゃな。




 私は、再び皆を見詰めた。

 なぜか父がいつもより小さく、むしろNの方が大きく暖かく感じた。そしてNの目は優しく、ずっと微笑んでいた。

 母性愛の本能を感じ取ったのか、「カックン」と叫び、私は床から這い出してトコトコと歩き出し、そして、Nの膝の上にちょこんと座り、ニコッと仰ぎ見て笑った。

「まあ、良い子だね。かずあきちゃん。このおばさんで、ええんかね。本当に。・・・・ありがとう、かずあきちゃん。」

 と言われ、私は一年振りに抱き締められた。




 ビックリ仰天。

 驚いたのは父。父は思わず、

「ほうー、こんなこともあるんじゃなぁ。一明が、初めての人に懐いちょるわ。」と喜びもひとしおだった。

 これで一明を安心して佐伯さんに預けられる。本当によかったと心底安堵した父だった。

 そしてもうひとつ、控えた再婚相手との再出発の人生が現実になるからだ。




 この頃、母は依然として行方知れずだった。その後、実家に戻り再びどこかへ働きに出たという。




 それから30年。

 母は、三度の再婚を繰り返した。ところが子供に恵まれることもなく、実の子は、唯一人、私だけだった。

 母は、未だに乳児の頃の私の写真を、肌身離さず持っている。

 そして、私が佐伯家に貰われた事実は、全く知らなかった。

 しかし、姉(伯母)の方は伝聞で養子に遣らされたことは知っていた。

 でも、苗字までは知らなかったと言う。当然、父の再婚相手は知っていた。




 これら出生の背景から養子に出されるまでの経緯を、初めて知ったのは、つい最近のことだった。

 しかし、母が何故、失踪し、帰って来なかったのか、その真相が明らかになるのは、もう少し後で判り、すべての疑問が氷解した。






「・・・・ ・・・・。」



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続き:問い掛け③

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