2018年5月31日木曜日

オウム事件の総括と暗示④

オウム事件の総括と暗示④

<解明から、解決への道程とは>

 麻原(彰晃)は、自称最終解脱の前にオウム神仙の会の頃からインドのダラムサーラへ赴き、ダライラマ法王14世と会見し、布施行を実践してます。そして坂本弁護士一家事件の直後も同様に、ダライラマ法王と会見し、法王のグルであるリンポチェクラスのチベット僧でさえ、麻原を見抜けなかった。その後、数々の犯罪を重ねる中、スリランカの各長老とも会見していたが、やはり、上座仏教の高僧でも麻原を見抜けなかった。

 そして日本でも、大徳寺の管長は、オウムへ土地を売るために麻原と会見し、麻原からオウムへの布施本を手渡されて、「勉強しなさい」と言われているのだから、禪の老師でも、大伽藍を守る盲のトップでは、企業の社長と同じレベルであると言えましょう。

 麻原と対談したビートたけしや大島渚氏や各有名人や学者の多くが麻原を見抜けないのは当然としても、観音菩薩の化身と称するダライラマやそのグルであるリンポチェや特別な能力を有する老僧といえども麻原の悪業を見切れないのは、どうしてなのか?

 それは各宗派のドグマに当人自身が陥穽しており、真の意味で、善も悪も無い二元対立の観念である囚われの心から離れた状態にあるからでしょう。その状態の心に至ることが彼らの修行の一つなのであり、さらにその先の先まで至ってもなお、心が現象界に在る限り、見切れないものでありましょう。

 そもそも仏教は宗教であってはならないと仏陀は説いています。また神仏を奉こともありません。

 仏教とは、信仰でなく、実践哲学であり、この現象界から離れる輪廻の解脱なのです。

 仏陀は、入滅直前に、「自灯明、法灯明」と仰ってます。これは、自己を見詰めよ、そして自然から感得せよ、というものです。要するに、人とは何かを哲学し自然という現象界を見て、よく考え見極めなさい、という暗示でもあるのでしょう。

 宗教のドグマ(教義)に感化され易い人間という生物は、無明の渦中に在ることに気づかぬまま輪廻の無常に流されているのだと。

 禪は、本来、功徳を否定します。それに囚わぬことであり、マーヤ(自我)の脱落と滅尽のために祖師禪があり、ダルマの教えが仏陀の法と重なるのです。

 禪も仏教も宗教でなく、自我の脱落によって無明から離れる法であるのです。

 そうすると、宗教に依存するのではなく、須く自分の頭でよく考え、物事の本質を哲学することが、オウム事件の解明から解決へと至る道程の暗示と言えるのえはないでしょうか。

 私の養父心山老師(玉龍寺住職)は、当初から、仏陀とダルマの禪理を唱えてました。故に、頭からオウムの出家信徒を否定せず、その修行における指向性と真面目な態度に、むしろ感化され、快く彼らの相談に乗って、何十人もの脱会を果たされたのです。そして、その中から、数人もの禪の師家を誕生させたのですから。

 心山老師が常々仰るように、麻原に正師となるホンモノの師が存在していれば、迷うことはなかったと。その通りでした。麻原がシヴァ神を信仰せず生きた正師をグルと仰いでいたらと、残念でなりません。

 今更、この場で、マインドコントロールの数々を詳細に語るのは控えますが、最後に思うことは、やはり法友であった純粋な若者たちが死刑囚としてこの世を去ることです。しかしそうなってほしくありません。

 麻原や、未だに盲従している暗愚な弟子たちは別にして、やはり、広瀬健一君や豊田亨君、端本悟君たちは、生きていてほしい。別に私のことはどうでもいいのです。彼らは、在学中に出家して、社会経験の無いまま洗脳されたような、純粋犠牲者の一人です。

 彼らの親御さんも、被害者のご遺族と同じ気持ちであることを考えると、マスコミや世間様においては、許す、許さぬという感情論に訴える心の状態を、敢えて一歩手前で冷静になってほしいものです。そして、人とは、一体、なぜ、罪を犯し、人を裁けるのか、と改めて哲学を初めてほしいと両掌を合わせます。それが仏陀の考えですから。

 そして、真の平和とは、怒りや感情から離れることであり、安心こそ癒しの空間のはずです。そのような空間を創り出すため、一人一人がよく考え、哲学し、真の自由意志を得ることで、愚かな行いを無くして欲しいと心から祈念いたします。


合掌


平成23年12月8日(木)
正偏(ぎょうにんべんに扁)智 vol.41.42 平成24年5月発行に収録

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