2018年5月12日土曜日

問い掛け①

以前ご本人から転送されてきていた、宮前(岡崎/佐伯)一明さんのカナリヤの会の会報「カナリヤの詩 161号、164〜166号」に寄稿された手記です。webで見当たらなかったので、書き起こしてみました。
幼少期、養子に出されたこと、事件を振り返って思ったことなどが書かれています。
続きはまたupします。

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問い掛け(2008年8月4日付)



 アルバムを取り出し、あの写真を見る。
「・・・ ・・・。」

 長い沈黙のなか、さまざまな思いが去来する。
 思い返せば二審(東京江東裁判所)の初公判があった夜も、そっと開いて見ていた。
 別に、これといった理由は何もない。過去に投影される追懐の情に、浸るつもりもなかった。
 なぜなら、その写真とともに三十余年、ずっと語り続けて来たし、ただ、そうしていたい。
 そして、二審も死刑判決になった。

「・・・ ・・・。」

 上告中の今、生きているうちに自分にできること、己の使命とは何かを突き詰めていきたい。
 自分にしかできないこと、どんなことでもいい。何かで、償うことを考えてみたい。刑に科される日まで、ただひたすら陰徳の道を歩み続け、この生涯を終われたらいい。
 今もなお、他を利することで今も救われていることに深く感謝し、ご縁ある、多くの人たちの安寧を心底願い続けていきたい。明日もまた心込めて筆を執ることのできる、そのときを。一瞬一瞬生きることの大切さを。最期の日までかみしめていきたい。
 周囲の温かい支援によって、いまの私は生かされているのだから。

「・・・ ・・・。」

 すると突然、九時の就寝チャイムが鳴り出し、室内の明かりは半減した。写真のコントラストがぼやけ、仕方なくアルバムを閉じた。立ち上がり、いつものように献花の水を入れ替え、御一家の戒名と法友(故人)に手を合わせ、看経を始める。このとき、フロアー全体がまるで雪の降る深夜のような静寂に包まれ、目を閉じると雪山の小屋の中にいるような錯覚に陥ってしまう。
 そして今日も、孤独に無言のまま終わる一日だった。

「・・・ ・・・。」

 我に戻り、再びアルバムをそっと開いてみる。
 目が慣れるまで、少しの間があく。

「・・・ ・・・。」

 それは、色褪せたモノクロ写真。田畑と鉱山に囲まれた片田舎の木造長屋の一隅だ。出入り口の敷居にちょこんと座っている二歳くらいの男の子。着物に前垂れをつけ、両足が地面に届かず、その浮いた小さな靴がなんとも可愛らしい。
 秋の日差しを斜めに受け、眩しそうな目をする横顔がまた愛くるしい。土間から野菊がはみ出す貧相な住まいだ。
 それでも愛情いっぱいに育てられているかのように笑みをたたえて写っている。

 それは私だった。

 三十余年もの間、胸の内から「どうして、なぜ」の谺が耳朶を打つ。

 ことの始まりはこの問い掛けからだ。

 物心がついた頃より、幾度と無く、その子が私を呼ぶ。
 アルバムを開くたびに・・・・、
「ねぇ、お母さんは、どこにいるの・・・・。」
と汚れのない笑顔で問い掛けてくる。

 養父を実父だと信じる反面、養母に対し疑念を抱いていた少年時代。
 その子とともに、 自問自答を繰り返してみたが・・・・そもそも記憶を照らすものが何もない。だから養母を母だと信じることにした。

 高校受験を前に養父から養子だと告げられ、やはりと納得した。
 しかし、気持ちの整理のつかないうちに、さらに別の疑念が湧き上がった。

 自分で言うのもおこがましいが、何故こんなにも可愛い我が子を置き去りにし、母は消えたのか。

・・・・・・・・・
 
 それが知りたかった。

 養父に訊ねると、
「そんなこと言われてものぉ、本人じゃないから、ようわからんのぉ」と視線を逸らして黙り込んだ。
 当然、気心の知れた養母には面と向かって問い掛ける勇気はない。

 翌日、養父母の前で誓った。
「生みの親よりも育ての親だと思う。当然のことだ。僕の本当の両親は、育ての親である佐伯家のとうちゃんとかあちゃんだよ。」と胸を張った。
 幼少の頃、耳にタコができるほど聴かされた浪花節の台詞のようだった。
 もちろん、養母には本音を言ったつもりだ。それでも、養父に対しては生理的なしこりが渦を巻いて残っていた。

 一方、記憶のない母の後ろ姿を追い続ける「問い掛け」は決して途切れなかった。割愛のジレンマをその子とともに享有していたいからだ。

 そして、写真はセピア色に変わった。

 母の蒸発から、四十年もの歳月を経たいま、その真相が明らかになった。
 それも、償うことの出来ない大事件の実行犯となり、死刑判決を受けた後に。

「・・・・ ・・・・。」

 或る日、目の前に掲げる坂本さん御一家の戒名を仰ぎ見て、真剣に問い掛けたことがあった。「いまの境遇に至らなければ母を知ることはありませんでした。でも、これだけ多くの犠牲者の上に得られた真実が一体どんな意味を成すのでしょうか。」

 ところが、沈黙の渦が独居房を包み込むだけで、回答は返って来なかった。いつものように瞑想を深め、床についた後も反応がなく、それから何日待っても、いつかのように坂本さんが夢に現れるようなことはなかった。

 思えば人生の節々で決断し、行動したのは自分寺院だった。麻原や石井たちから巧妙に刷り込まれ、騙されたのだと人は言うかも知れない。確かにそうだった。しかし、間違いなくその場で選択し行動したのは私だった。もちろん、教義を心理だと盲信し、背馳の観念に陥穽した無私の蛮行にほかならない。これは決してゆるされるような行為ではない。

 猛省の念を深め、生命の尊厳について思いを馳せることが多くなったいま、私が死んでも、被害者の方々は誰一人、生き還らない現実が残るのだ、そう思うと、喉の奥が詰まり、脱力感に打ち拉がれてしまう。

「・・・・ ・・・・。」

 以前、滝本太郎弁護士が面会で、こう仰有っていた。
「君らが死ぬことによって、坂本君が生き還るなら、何度死んでも良い。しかし、そうはならないから、だから君には死刑になってほしくない。」と。


 罪の深さはもちろん、多くの人たちに与えた絶望と怒り、悲しみと虚無感をこの日本にえいえいんに刻み込んでしまった事件。そしてこの怨嗟の念を癒すことは出来ない。誰にもどうすることもできない。消し去ることも償うこともできない。罪と悲しみだけが残り、何よりも、そうさせてしまったのはなのだから。
 一体、どうして斯う成ってしまったのか。なにがそうさせたのか。そして、これは起こるべくして産まれた、(麻原の存在)必然の減少(日本社会の歪み)といえるのか、私なりに冷静に模索し続け、早八年が過ぎようとしている。


 人類の歴史に思いを馳せれば馳せるほど、思いをどうしようもなく、やりきれない。なぜなら、人とは何故、これほどまでに暗愚な生き物なのかと・・・・・・。
 言う迄もなく、自分もその中に入る愚か者の一人だ。識れば識るほど暗然とさせられた。理不尽と言える思考停止のわなに人々は翻弄され、戦争を繰り返して着たのだから。
 仏教の歴史から思想、哲学、そして日本やアジア各国の民俗学、死生観の有様について、また、現代科学の領域で人の心がどれほど解るのか、照らしてみた。
 現代人の価値観と心の居場所探しや様々な宗教についても慎重に、ひとつひとつ丁寧に整理して来た結果、いま漸く辿り着いたと思う。
 人は、いま、目の前に在る事象を正しく見ること。そして、在るがままを、k何社しつつ大切に生き抜くことではないかと。
 すると、これからどうすれば良いのか。人は皆、在るがままで、完璧に倖せになれるのか。在るがままの心に拠って誰もが平安を約束できるのだろうか。
 在るがままとは無為自然のことなのか。老荘思想の無為自然が真実や本物を見分けられるのだろうか。
 無為自然とは仏性を規定とする思想ではなかったのか。誰にも仏性が在ると仏陀は述べ、自灯明、法灯明を旨とせよと言っている。誰にも、それだけで地球は救われ万物にとって、最も善いことなのか。

「・・・・ ・・・・。」


 そして再び、問い掛けが始まった。隔世の違いはあれど追い求めていた目的は、人とは何か。そして、万民が倖せになることだった。渇愛を求め続けて来た幼少年時代の問いかけの人は、もちろん母のことだった。


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続く。

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