2015年12月22日火曜日

解脱-1


《宮前さんの手記を元に、宮前さんの出家後の経緯を記します。》

解脱-1

 1988年7月25日、岡﨑はラージャ・ヨーガにて麻原から成就したと認められる。5月28日から59日間にわたり、連日20時間前後の真っ暗闇の独房修行の結果であった。

 独房修行は、岡﨑の前に、2人の弟子に試され、失敗した後だった。その弟子とは、杉本繁郎(地下鉄サリン事件の無期懲役囚)とH氏だった。

麻原は2人に対し「解脱するか狂うかの修行メニューだぞ!」と厳しい修行プログラムを課した。しかし2人は、同部屋に間仕切りを立てて一週間後、「もうここから出して下さい」「これ以上は無理です」と悲鳴をあげ、修行中断を懇願、麻原は落胆した。

 そして急遽、麻原は岡﨑を呼んで、「30日も籠もれば、解脱できるだろう」と彼ら以上の厳しいプログラムを告げた。当時岡﨑は、弟子たちの中ではクンバカ(保息時間)が一番長く、ESP能力(超感覚的知覚)も突出しているとされ、オウム出版での功績も奇跡的な数字を残していたため、成就に必要な功徳は十分と踏まえられていたようだ。岡﨑は独房修行に選ばれたことを歓んだ。

 その頃、岡﨑に賛同する最古参の弟子たちが何人か脱会し、さらに麻原が前世の息子だと可愛がっていたS氏(岡﨑の親友として地裁に証人出廷した人物)までが女性サマナと一緒に脱会。さらに、仲の良かった大内夫妻と妹の早苗が、麻原の指示で大阪支部開設の為、離れ離れとなり、岡﨑の周りに心を許せる最古参の法友は、飯田エリ子と山本まゆみのとなっていた。

 元・阿含宗信者や精神世界を渡り歩いて来た最古参の弟子たちは、麻原が宗教法人を切り出した頃から脱会する傾向にあった。そして書店で初めて麻原の本と巡り逢い、入会・出家をする宗教遍歴のないタイプの弟子たち(村井秀夫夫妻・上祐史浩・杉浦兄弟・岐部哲也・鎌田紳一郎・遠藤誠一など)が残ってスタッフに加わることとなった。当時は、以前の修行サークルの雰囲気より、ロータスビレッジ構想(修行者の理想郷)を礎に、”日本にはないホンモノの出家集団を宗教法人”としてアピールする転換期のスタートラインにあった。

 岡﨑は独房修行の10日目から眠れなくなり、麻原にそれを告げると「それは佐伯、私に対する帰依が全くないからだ」と言われてショックを受ける。さらにその後、麻原からなんでもよいから書いたものを提出するよう言われ、悟った雰囲気の文章を提出。世話役のO氏はそれを見て悟っていると感心したものの、麻原に電話の向こうで「それはエゴだ」と言われ、再びショックを受ける。

 麻原がこのように、弟子の自我を潰して「無私」の入り口へと導くやり方は、以前麻原が解脱の指導を受けた雨宮第二(ダンテス・ダイジ)からの影響が強く、間違いなく禅宗系の「無」を麻原流に色付けし、自我の崩壊からグルへの帰依へと意図するものだった。それは、「空」の認識を無視する指導法だった。

 当時、岡﨑のグルへの帰依が足りない訳ではなかった。なぜなら、多くの最古参の弟子たちが麻原から離れて行くなか、岡﨑は残り、また、ほかのスタッフを鼓舞し、上祐史浩を中心とした新しいスタッフ陣に対しても懇切丁寧に一から指導することで、信頼を授かっていたからだ。

 その証拠に、岡﨑が大魔境(※)に陥り、オウム脱走後自首し死刑判決を受け、その確定日が近づく間際、古参弟子(杉浦兄弟たち)を含む40名近くのサマナたちが、昔(当時)のお礼と感謝の念と称して面会を続けていた。三女アーチャリーが、電報や面会で岡﨑に相談を請う事もあった。


つづく。

※「魔境」とは、分かりやすく言えば、禅僧が修行中に、本当は心身のバランスが崩れて幻覚症状に陥っているだけなのに、あたかも悟ったかのように、すばらしい境地に達したかのように、勘違いしている状態です。